感覚の世界の旅 その29 客観的に見つめる事

 自分の人生を振り返ってみて常に客観的に見てる自分がいるのです。歩いていてもあの人から見たじぶんの姿とか、喫茶店に入っても人から見た自分の姿とかみています。時々人が自分のそばの誰かに挨拶したら自分かなとか思ってしまうこともありました。人から見られている自分が非常に気になるのです。それは直感的に自分の意識に現れてしまうのでどうしようもありません。

 教会では皆で集まって決断式します。そしてみんなの気運が上がっていくのですが、私はどうしても上がりません。そこに没頭できないのです。でも他のメンバーは最高潮に達していました。決意している様子でした。でも、自分にはいろいろは問題があって、中々難しいのです。でもそんな姿を見せられないので、みんなと一緒に表現していました。

 いつも客観的に見つめることで何処に没入しないのです。だから完全に信じきってしまうことはありません。外的にも内的にも客観的に自分を見つめているんです。自分でもどうしようもありません。いくら否定されても無理なんです。みんな信じて言われるごとくにしようとしますが、私はなんか仕方がなく全体にあわせないと受け入れてもらえないので合わせます。
 私は感覚的に人間のようですね。概念の世界では生き難い人間です。そして意識は法鏡であると言い出すでしょう。そのように感じるからですね。自分の意識は私自身でありそれを認めずしては自己の創造が出来ないですし、自身の良心作用が働かないのです。意識は100パーセント自分自身の現われだと私は感じてます。だから被害者意識になったら自分の責任であり、心情を蹂躙されたら自分の責任になってしまいます。被害者意識、心情を蹂躙されたと感じた瞬間に私は普通の人のように加害者を打つようなことが出来ません。無理です。どうして打てないのかと言いますとそうしたら自分の理想が果たせないからですね。これが理想が果たせない神の事情であり、神のハン(恨み)なんです。これが良心作用として働いているのが分かります。だからどうしないといけないかといいますと被害者意識になった自分に責任があり、心情を蹂躙されたと思った自分に責任があります。

 このような道を歩める方はいらっしゃいますか?今の裁判問題は必要かもしれません。否定するつもりはありません。しかし、私にとっては不必要です。法律は私達を概念の世界、概念の習慣に縛り付けるのですね。そこから脱却できなくなります。民主主義の法律は被害者を擁護しなければならないからです。被害を受ける人々を守らないといけないからなのです。加害者がいるのでそれから守られなければならないからです。今の社会には必要でしょう。それは否定できません。でも、私には必要ないです。私にとっては壁になります。
 私は教会に来るまで自分が無宗教だった理由も分かりました。なぜ無宗教だったかと言うと宗教の形式的はものは自分の感覚が拒否しているからです。お仏壇の前でお経を唱えるおばあちゃん、次に母親、そして父親までも何があったか知りませんが、お経を唱えてました。でも私はそこに行く事はしなかったのです。多くの宗教の儀式がありますが、私の体は拒否してます。だから儀式は抵抗があります。儀式は概念の人々がすることです。感覚は必要ありません。

 それから私は人の建前と本音を分析してしまうのです。直感で分析している様です。困ったものです。人がお話をしていても、それを聞きながら本音かどうか確かめているんです。周りの環境に合わせて、建前で話しているかも分析してしまいます。これはやりたくてやっているのではなくて、自然にそのように見てしまいます。だからわかることが多くて、知らなければ良いのにと思うこともあって勝手に苦しんでいることが多くあります。だから勝手に捉えて苦しむことも多いのです。でも、正確にそれを感じ取る為に努力はしています。
 現さなければ誰も分からない世界を持ってる人いますか?この人は感覚人間なんです。私と言う世界は表さなくても良いのです。比較する必要が無いからです。「どうして比較するんですか?どうして他のものと比較しないといけないのですか?どうしてその様な評価をしないといけないのですか?」と言う質問がしたくなります。評価は複数の人が集まって初めて可能です。沢山集まれば集まるほど平均値がでます。その平均値で評価するのです。

 これが何かと言いますと正規分布図ですね。人が沢山集まって初めて可能です。一人だったら不要なんです。私達の世界という世界では通用しますが、私の世界では不要なんですね。それから善悪は比較することで現れるでしょう。評価自体が比較することで可能なのです。だから私達の世界では使えますが、私の世界では無用なんです。だからそれが自己実現につながると言うことです。

 私は苦悩の中でどうして忍耐している事が出来たかといいますと、私は自分に誓ったからです。どんな誓いかと言うと「もしもう一度教会に導かれる事があったら、一生涯その道を行こう。」と学生時代に一人でアパートに住んでて、一人でいる時にある本を読んでいる時悔い改めさせられました。その時は教会には行ってなく、二度誘われた経験がありました。しかし、かなり遠のきました。しかし、それで一人でアパートの自分の部屋で住んでいる時にそんな決意をしました。実は、ある日の私が決意したその40日後初めて私のアパートに神戸から大阪の旭区に夜11時にやってきました。一時間以上はかかるのに、姉が私のアパートを訪ねてきたのですね。そして姉は一日の修練会に参加する事を薦めます、だから受け入れるほかしかないでしょう。そうして受け入れてとんとん拍子に導かれるままに歩むことになりました。だから行かざるをえないでしょう。

 そして導かれてから何があっても挫折する訳に行かないのです。自分自身の誓いを守るためです。報告、連絡、相談はとってもきつかったですね。それが出来ない自分の罪悪感に埋もれそうになり、尚且つ秘密はいけないと言われてましたね。私はあまり優秀ではなかったので一度話したら善悪に分別され私の感覚は麻痺し、何とか時間をかけて自分で感覚を戻していました。でも自分は何とか適応し認めてもらうために努力せざるを得なかったのです。

 報告、連絡、相談が徹底されるとこれは概念の世界の決まりなので、感覚の私はもう大変です。こんな事を書いても分からないので書かないでおきます。

 

 

 

 

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