「私達の世界」と「私の世界」は世界の構造を理論的にピッタリ合うような気がします。私には皆さんが見えない「私の世界」が見えるのですね。

 

 基本的には次のような基本ラインが私にはあります。

 1、「人間の意識は人間しかない。と言うことです。」他の生き物にも意識はあると言う人々がほとんどなんですが、これは意識の概念に対する理解の違いかもしれません。私自身は意識は人間だけだという立場なのです。前野氏の受動意識仮説は他の生き物も意識を持っているという立場ですね。そして私と言う存在はないう、私と言うのは脳が作った幻想であるとも言われます。私は私と言う存在はあると思います。意識が作る私は脳がつくったものですが、他に私が存在する事は明らかだと思っています。

 2、「人間は同じにする力がある。」これは養老猛司氏の理論なんですが私もまったく同感で、現実の日常生活の中で観察してみても明らかにその様に言えるところが沢山見えます。その代表的なものが人間が使う言語なんです。言語は同じにする力がなければ使えません。動物がお話しするという人もいますね。オウムがお話しています。教えれば片言の話はします。しかしこれは機械的であり、人間が動物を見ているからないのです。話が出来る人間の立場で動物を見ると話をしているように感じるのです。

 3、「生き物には人間の表現する愛はない。」それから生き物にも情があるように見えますね。生き物にも愛があるように見えますね。それはどうしてでしょうか?それは人間の内側の本性が生き物に映し出されるからです。人間はそれを愛と評価しているのです。だから生き物に愛があるように見えるのです。野良猫を観察していました。とっても愛らしいです。かわいらしいです。そして自由で人間の言うことを聞きません。そんな猫の動きがあります。この猫に愛があるとかかわいらしくしようとしているとかその様に思いたいのですが、大体はその様な考えを持っている人が多いです。本当に人間のような愛らしい世界がありますね。それらの動きは確かに動物とか生き物にあります。ないと言う事はありません。ところがそれを評価しているのは人間なんですね。人間は評価できます。たとえば自分の赤ちゃんを外的から守る親の姿がありますね。敵から守っている姿があります。敵から赤ちゃんを守っているだけであり、本能的にその様にしているのかも知れませんね。その姿を見て人間は「命がけで赤ちゃんを守る親の姿」と評価するんです。実はこの機能は一人一人に本性があります。その一人一人の本性が映っているのです。映って人間はそれが愛であると評価しているのです。そうして人間はその様な対象物に映っている自分の姿を見ながら学習して成長するのですね。アダムとエバもその様に成長する過程が会ったのではありませんか。

 4、「意識は後追い意識である。」私という意識を脳が作っているというお話がありますが、これは脳が先に人間の行動の信号を作っていると言う意味なんですね。私達は意識して私達は行動していると思っているでしょう。その様に何の疑いもなく、何も疑問も感じなく、絶対的に信じて生活しています。人間の脳がずれを修正してその様にしているのです。だから脳の無意識が作る意識は幻想であるといいます。でも、真の私の存在は否定できません。私達の生活は意識を自分の意識の様にして生活しているので、人間に喜怒哀楽があり、アンガーマネージメントが非常に難しいでしょう。それはどうしてかといいますと自分が原因なのに自分が原因だと思っていないからです。自分の意識と言うのは外部の環境から来たものであって、自分が決して作ったものではないと思っているからなのです。それによって人間は被害者意識になりやすいのです。そして責任を外部に置くのです。ところがその責任の所在が自分になってしまいます。実はこれが「私の世界」なんですね。

 5、「私達の世界と私の世界は日常の世界で重なってあります。」これは私自身の体験から得たものです。多くの本を読む人もいます。多くの文献を読む人もいます。色々と勉強する人もいます。実はこれらはLLM(Large language model)であり文字なんです。言葉という概念で構成されています。これらはすでにAI人工知能が支配的になりつつありますね。だから人々は恐怖感を持つんでしょう。しかし、私には関心がまったくありません。その世界には真実がないからです。いまネット上のLLM(Large language model)は偽りです。偽りで構成されています。事実ではありませんね。一人一人にとっての事実は日常の目の前の出来事なんです。事実の世界は大きな視野では宇宙次元では存在はします。例えば地球の地殻で何が起きているかとか、アフリカの森林で何が起きているかとか人間では認知できない出来事が無限大にあります。人間が認知している世界と言うのは非常に狭いのですよ。しかし、日常で人間は何でも知っている気分になっているのはこのLLM(Large language model)の影響なんです。

 6、「私の世界は自分の皮膚の外には関係ない。」日常の生活でこの「私の世界」は人から見る事はで来ません。だから誰一人理解できない世界なんです。まじわるものがありませんね。多世界解釈を調べたらウイキペディアではこのように書いてありました。「多世界解釈(たせかいかいしゃく、英: many-worlds interpretation; MWI)とは、量子力学の観測問題における解釈の一つである。 この解釈では宇宙の波動関数を実在のものとみなし、波束の収縮が生じない。 そのかわり重ね合わせ状態が干渉性を失うことで、異なる世界に分岐していくと考える。」これはどういう意味かといいますと、量子力学を少し勉強しないと理解されないと思いますが、量子もつれの振る舞いがあるんです。人間が観測して量子の波動関数の波束の収縮が起きます。観察すると言う事は人間が0と1をはっきりさせたいと言う意味なんですね。そんな時は粒子として現します。しかし観測するまえの量子状態です。この観測するまえの分からない状態です。皆さんは分からない状態で何処まで忍耐できますか?絶対に明確にしたいし、明らかにしたいでしょう。回答を出したいと思うでしょう。がっこうで問題を解いていましたね。答えを出す訓練をしてきました。その答えがない状況をいうのです。実はこれが「私の世界」と同じなんです。さらに、「そのかわり重ね合わせ状態が干渉性を失うことで、異なる世界に分岐していくと考える。」と表現されているのは異なる世界があるということですね。それを私はこれしかないと確信したいほど感銘をうけました。正しいかどうかわかりません。さらに探求の余地はあります。この異なる世界に分岐していくのが実は一人一人の「私の世界」なんです。そういう意味で多世界解釈があると私は思うのです。

 この続きはまたにしたいと思います。今日はこれくらいしか思いつきませんでした。

 

 

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