人の価値がどれくらいの人に人に知らる知名度と死んでいくときにどれくらいに人が悲しむかその度合いで評価を私は感じます。私自身がその様に考えているかもしれませんが、歴史に名を残したいでしょう。多くの人々に自分が死ぬ時に悲しんでもらえるそんな人間関係を作って行きたいですね。結果的にその様になっていると思うのですが、そんな姿を見て人がなくなるときにどれくらいの人が悲しんでくれるだろうかと思いませんか。その願いを昔は持っていました。しかし、自分はそれが無理だと言うのも理解してきました。

 我が組織での知名度が上がります。組織も色々と沢山増えてきましたね。その組織の地名度は名札で決まります。この名札さえ持っていると我が組織の何処に行ってもその名札が使えるでしょう。我が組織以外にも使える名札もありますね。この名札のために生きているのでしょうか?それが私の疑問なんです。この名札は私が説明している人間の価値のバロメーターになるのでしょうね。だから自分も追い求めてきたように思います。これは実に「私達の世界」では十分に通用するのです。だからみんな人々は有名になりたいし、知られた人物になりたいと思っているでしょう。

 でも自分が死んでいくときにそれが本当の価値かどうかを見つめる時がきますね。知られた人物がもし知られないところで急に体の様態が悪くなって死にそうになった時に回りに誰もいないですね。そのときになって何を考えますか?そこには誰も悲しむ人もいないし、自分ひとりで意識がなくなっていく状態を自覚しなければならない時に何を考えるのでしょうか?自分ひとりでも満足していつでも霊界にいける準備をしているのであれば別にかまいませんね。しかし、一人で孤独で霊界に行く時にどのように考えると思いますか?自分がいつでも霊界にいける準備が出来ていれば別にかまわないでしょう。多くの人が悲しんでくれるのも良いでしょう。喜んで送ってくれるのもよいでしょう。また一人で行くのもよいではありませんか。

 大体は人が死ぬときにその人がいなくなることで自分の中にポッカリを穴が開いてしまいます。だから悲しむのではありませんか。でも、悲しまない人もいます。良く頑張られましたと喜んで送る人もいますね。そんな人は遠くで見送るでしょう。悲しむ人々はなるべくその人の近くに行きます。それは何かと言いますと自分自身を慰めているんです。分かりますか自分自身を慰めているのですよ。亡くなった人はもういません。体だけがあります。だから体に寄っていきます。どうしてですか?それは体がなくなっても自分を慰める対象がなくなるとさらに辛いでしょう。体があれば見えますから自分をなぐされめられるのです。

 私は父も母も亡くなりましたが、どこかの異国に地にいるような感覚です。でも永遠に合えないだけで異国の地にいるような感覚で毎日過ごしているのです。悲しみは特にありません。母親が亡くなったときに日本に帰りました。私の姉は酷く悲しんでました。それをもらい泣きしてしまう私がいました。母親には悲しんでませんでしたが、あまりに姉が悲しんでいるものだからもらい泣きしていたのです。悲しみがわかない自分が変なのかなと思っていました。その日の夕方には灰になっていました。もう母はいないんです。一体何処に行ってしまったのでしょうね。異国に地に行ってしまったような感覚を私は今も持っています。アメリカに来てから両親とは離れて暮らしていたのでその延長のような感覚で今もいます。

 人の価値を計ると言う事はどういうことですか?もしかしたら人の価値を計る自体が必要ないかも知れません。そんな人間の名札で人の価値をはかるなんて変だと思いませんか?人の価値を皆さんははかっていますか?組織でも人の価値をはかってませんか。あの人は良く頑張るし、実績も作っているので必要な人物、この人は何もしないし、献金もしないので必要のない人物とか、そのようなはかり方をしています。私はもうそれは駄目なんですね。そんな評価をされると苦しくて仕方がありません。

 これは私が考えた「私達の世界」と「私の世界」の二つの世界があることを知ると良く分かります。私達の世界は創造主のよって創られた宇宙であり、地球です。そして地球では人間が住んでいてその中で人間は生きています。その中の私の存在を「私達の世界」と言います。多世界解釈がありますが、それは私はないと思います。「多世界解釈とは、量子力学の観測問題における解釈の一つである。この解釈では宇宙の波動関数を実在のものとみなし、波束の収縮が生じない。そのかわり重ね合わせ状態が干渉性を失うことで、異なる世界に分岐していくと考える。 ウィキペディア」と説明されていますが、私はないと思いますね。量子力学の世界では量子もつれの世界ですからこれから話す「私の世界」に関連しているかもしれません。

 この「私の世界」は私だけの世界なんです。実は「私達の世界」で「私の世界」を創りながら私は毎日生きているといっても過言ではないと私は感じます。「私達の世界」では私達の責任と言うのがあって組織での責任とか法律を守る責任とか、いろいろな責任があります。私達が考えてきた責任はその様な責任が多かったでしょう。しかし、原理講論が説明している責任はその様な責任ではないんです。人間の責任は「私の世界」にあるのです。だから責任が違います。

 私の責任は私を育てることなんです。とっても矛盾した表現ですが、私が自分の中に複数いる事になりますね。人々の中では自分で会話している人もいます。何か知りませんが複数存在していますね。これを私は日常の生活で感じることが出来ます。それは肉身が作る私です。肉身が作る私といのは何かと言いますと自分自身の意識なんですね。自分自身の意識は自分の脳が作った幻想なんです。まるで自分の様にして現しているのです。しかし、自分が作った自分の脳の幻想だと言うことがいえます。だから真の私自身ではありません。

 それから良心はこれも真の私自身ではありません。これらの意識と良心は肉身の寿命と共に消えていくからなのです。残りません。地位、名誉、財産はあの世に持っていけないというでしょう。実は自分の意識、良心はあの世に持っていくことが出来ないのです。では真の「私の世界」って何でしょうか?それはまだ探求の余地があります。今も探求中です。自分自身の日常の生活自体はお金儲けをして生活しています。でも私はそのために生きていません。自分はれを探求する為に生きています。「私の世界」を作るために生きています。なぜかと言いますと私の責任だからなのですね。

 日常の生活がどうして苦悩になるかと言いますと「私の世界」を探求するからなのです。正当化できないからなんですね。みんな簡単に逃げ道を作ったり正当化しているのでその分楽に過ごせます。自分の場合は自分の良心が許さないのでやはり耳を傾けるしかないではありませんか。そして耳を傾けてもそれが楽になる事はありませんね。日常生活での主役は私なんですからそこで責任を果たさないといけないのです。

 

 

 

 

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