イエス様の感覚

 

 箴言 27:1-16、には「あすのことを誇ってはならない、一日のうちに何がおこるかを知ることができないからだ。 」というイエス様の言葉が書いてあります。

 

 これを現代風に考えてみましょう。今と言う瞬間が大切なんだと言うことを仰りたいと受け取れます。イエス様はご自分の感覚を持っていらっしゃるのでその様に思います。どうして自分の感覚があるとそう思えるのかを説明しますね。現象的に全てがこの今という瞬間にあるということを感覚の世界では捕らえるからです。人間の脳に入ってくる入力の信号は人間の持っている肉的五感により電気的信号に変換されて脳に入るので自分の脳に置いては入力信号になるのです。この信号自体が今と言う瞬間なんですね。この信号に過去の信号とか未来の信号とかありません。いま、自分の目の前の環境から来ている今の瞬間の情報なんです。

 

 それから感覚は概念の様に決め付ける事はしないのです。そして多様性に対しても非常に適合できます。何が起きても対応できるのですね。外的な現象に対しても評価しないでそのまま受け入れるからなのです。概念で生きるとはっきりとしないと不安に陥ります。良いことと悪いことと評価しながら生きることで適合できます。明確な環境を好みます。曖昧な、何が起きるか分からない、不安定な状態を嫌うのです。だから明確にして予定をたてて、それから目標を作ってその目標を達成するための今と言う瞬間があるのです。過去に関しても過去のことに対する怨みとか、過去のことに対して公開している事とかいろいろな過去を引きずりながらの今と言う瞬間があるんですね。だから概念で生きる人は今という瞬間は過去のためにあり、未来の為にあるんです。今という瞬間を評価しない手受け入れることが難しくなっているのです。

 

 感覚の世界が分からないので今と言う瞬間をそのまま評価しないで受け入れることを無視しているのです。感覚人間は無視しません。一番需要なのが「今という瞬間、目の前にある環境の中の自分」なんです。ここを一つ抑えておきますね。そして脳に信号が入って、頭の中でごちゃごちゃと計算して出力します。人間の出力は脳が筋肉を使って例外なく出力します。それで私たちは生活しているのですね。簡単でしょう。しかし、このごちゃごちゃという計算部分において現代科学ではまだ解かれてない課題がたくさんあります。でも、一応、「この現象の世界からの入力と脳の出力の関係になっている。」と言うことを頭に入れて置いてください。

 

 では、私達の日常の生活ではイエス様が語られる明日のことを誇ってはならないとか、煩ってはならないとかいわれます。感覚人間にとっては今と言う瞬間が大切な時間なんですね。脳の機能から考えてもその通りでしょう。だから人間は不思議な生き物なんです。

 

 どうして過去のことを考え、未来のことを考えて、過去と未来のために今を生活しているんでしょうか?今と言うこの瞬間が見えてないでしょう。良く自分を見つめるとそれが分かります。そういうふうに暮らすなという意味ではありませんが、今という瞬間が見えてないのが私たちの課題になっているのです。そこを感覚を持っていらっしゃるイエス様は言葉で箴言 27:1-16に書かれてるその様な表現をせざるを得ないのでしょう。当時の人々は律法で定められた言葉で作られた社会で生活しています。それは今も同じでしょう。社会の構造は概念で作られている構造になっています。

 

 概念の構造の特徴は個人の感覚の世界がありません。感覚をかなり収束させて意味付けして、それを言語にしているからです。私は森の話を使います。それは養老猛司氏が使っていらっしゃるので森の話を良く持ち出します。概念で生きる人は知識で生きる人です。知識で生きる事を私は概念遊びといいます。概念遊びが大好きな人々が集まっています。みんな概念遊びが好きなんですね。

 

 私は概念遊びがとっても苦手です。言葉の学習障害が生まれた時からありました。なぜか少しだけ説明します。言葉を話すのが遅かった、学校で本を読むのが苦手だった、本を読むのに文字の一字一字を音にしていたからうまく読めず、何が書いてあるか内容が分からないという妙な現象が起きてました。それから会話が嫌い、理解力が遅い、言葉の燎原力が遅い、少しだけ遅れる。と言うように言葉に対する障害が少しあったみたいですね。今も本を読むのが苦痛なんです。こうして文章を書くのですが読み返すのも苦痛を感じますが、出来るだけ読み返して訂正すべきとことろは訂正するように努力しています。だから私は概念遊びが苦手なんですね。どうしてか?それが最近になって分かったんです。自分がかなりの感覚人間だと言うのが分かりました。

 

 概念からうまれる閃きと感覚からうまれる閃きの違い分かりますか?概念からうまれる閃きは既存のものから越える事はありませんが、感覚からの閃きは既存のものを超えて新しいものを生みます。だから私は感覚から新しいものを生み出していきます。誰も書かないことを一応概念化しないといけないので、記事という形で書いていきます。

 

 イエス様は感覚の方なので当時どんな方かは少し予測できます。概念遊びの好きなイスラエル民族、律法で成り立っていた社会の中に感覚の人物が入るとか何生き難いと思います。律法では善悪の基準をハッキリさせています。罪人として法律を破った人を裁きます。イエス様も裁かれてしまいました。罪人に仕立てられたでしょう。

 

 しかし、感覚の人は善悪の評価基準を持たないんです。イエス様に置かれてはどんなに罪人であってでもそのような人々を許して救われるのでしょう。敵であっても許していかれますね。怨讐とか敵とかと言う表現をされましたが、それはユダヤ民族の立場に立って表現された言葉であって、イエス様の中には罪人とか怨讐、敵という言葉の概念、評価基準はなかったでしょう。あればご自身が偽善者になってしまわれます。感覚に入れば善悪、怨讐とか敵という被害者意識、良いもの悪いものと言う評価基準もないのです。

 

 私達がもしイエス様を慕うのであればこのような基準を持つ必要がありますね。一切評価しないのです。評価しないでありのままを受け入れる方なんです。だから罪人、悪人、怨讐とかその様な悪者のように見える人々も何の生涯もなく受け入れられる方なのですね。私達もその世界を真似ないといけないのではないかと強く感じます。だから私自身、毎日それを実践しています。自分の中から評価基準を取り除くというよりも、取り除かなくて済む方法があります。それはどういう方法かといいますと、日常の自分の意識があるでしょう。それに自分の評価基準を当てるのです。そうすれば偽善者になることもありませんね。

 

 私が人を裁きの思いを持っただけで、その裁きの基準で自分が裁かれるとかきました。この基準が偽善者になってはならないと言う基準でしょう。誰でも自分の意識に裁きの思いが表れると思います。そしてほとんどの人はそれを言葉にしてしまうのですね。イエス様の基準はその裁きの思いもないので、人々に色々言えるのです。イエス様を慕うのであればぜひともその基準になりましょう。

 

 

 

 

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