私には誰も寄り付かない。それはなぜかと言うとフレンドリーではないからだ。私の書く記事も誰も書かない記事なので、何の評価も出来ない。良いも悪いも分からない。それが段々と分かってきた。

 

 善悪の評価はもうやめた方が一人一人のためである。この評価をしている限り成長することはない。その理由を少し書いてみる。何故成長しないのか。善悪というのは’感覚ではない。概念である。概念で作られた善悪の評価である。正しいことと間違ったことも同じである。何が正しいことなのか、何が間違ったことなのかという評価は本来はない。こんなことを書く人間は誰もいないだろう。

 

 概念がどうしていけないのかと言うと、自分を見つめることはしないからである。自分を無視し、自分は関係なく、人ばかり見る。環境ばかり見る。そしてそれを評価しているだろう。間違いなくそうしている。自分を見つめられないことは重大な問題なのだ。成長のための自己の位置が分からなくなる。だから成長は無理である。頭でっかちになると言うことだ。偽善者になる。

 

 真理を何に使っている?真理は自分の為にあるのではないか?人を計るものではないはずなのに、それを用いて人を裁き、人を評価している。そして教会の内だとか教会の外だとか、原理圏、非原理圏とか分けている。教会に来なくなったらどうのこうのと言う、教会に来なくなったら離れたという。路上で伝道しない人は、学校で伝道しない人は摂理から離れた人だと裁く、祈らない人、訓読しない人は不信仰者と評価する。言葉で表さなくても意識がそのように表れる。

 

 実はこれでは成長しない。なぜなら真理は誰のためでもない、み言葉は誰のためではない、聞いたものの為にある。しかし、聞いてもそのままにして、人に伝えようとするので、真理という概念で伝えることになる。そして自分が変ることがないので、人を変えようとするしかない。

 

 本当にそれで良いのかと私はいつも思っている。真理は自分の感覚に戻さないといけないのに、日常の生活で自分の感覚に戻さないといけないのにそれが出来ていない。なせかと言うと自分の感覚が分からないから仕方がない。自分の感覚って一体何かというのは自分を自分で見つめてみなければ分からないのである。

 

 この感覚の世界に入ったら、今までの善悪、正しい間違い、人に対する評価は全て自分自身の評価にすべきなのだ。そうすることで善悪、正しい間違い、人に対する評価は自己の創造につながるのである。自分がどれくらい成長できているかそれで確認するから、そこには善悪なんて存在しない。

 

 この基準を取り戻すためにはどうしても外的な概念からやらないといけない事情があるので、外的な世界で、二つに割ることで善の表示体と悪の表示体にわけて評価せざるをえない。何時までそれをやるかと言うとメシヤを迎えるまでそれをするのである。そして実体になるとそれらは全て自己の成長基準に変化していくのである。

 

 それはなせかと言うと自己と見つめられる人しか分からない。ほとんどいないだろう。だから誰も私を理解できないと思う。長年教会生活をしてきたが、自分を理解する人はいなかった。どれくらい自分の全てを理解する人がいればよいかと思ったことか。しかし、一人もいないので、自分がその人物になろうと決心した。

 

 もともと孤独という概念も自分にはない。寂しいと言う概念もない。「私の世界」を見つめられると寂しい、孤独、疎外、のけ者とかそのような概念がなくなってしまうのだ。さて、どれくらいの人が私の記事を理解することが出来るだろうか。間違っていたら仕方がないが。

 

 

 

 

 

にほんブログ村 海外生活ブログ ロサンゼルス情報へ
にほんブログ村