昔は優柔不断な、ハッキリしない子はいけない子として見られて来ました。私の時代もそうでしたね。私はハッキリしない、無口な、優柔不断な、ちょっと変った子でした。「ハッキリしなさい!どっちなの?」とまでは叱られませんでした。だから、私は少し優柔不断なところもあったかもしれませんね。

 

 それがどうして必要なのかと言う理由については長くなるのでここでは書かないでおきます。簡単に言えば象徴的な条件を立てなければならなかったからです。今は象徴的な条件を立てる外から内的な実体的条件を立てる時代になりました。この実体的な条件とは何かと言いますと自己創造です。

 

 象徴的な条件を立てるのに必要な善悪の分立はもう必要ないんです。正しい間違いの評価も必要ありません。殺人も神の名で人を殺せば英雄でしょう。悪人を殺せば英雄です。同じ殺人ではありませんか。どこが違いますか?正しい行為、間違った行為の判断基準は一体何かなのです。この判断基準は被害者意識から来ています。被害者がいなければ悪の概念は成立しないでしょう。被害だと感じなければ悪という概念はないのですが、はじめに被害者が立ちます。被害者が立てば自動的に加害者が存在します。加害者は被害者がいなければ存在しないんです。

 

 自分が被害を受けたというその感覚が悪を作っているともいえるのですね。何も悪いことをしていないのにどうしてこのようなことになるのか考えられないと言うでしょう。自分は被害を受けるはずがないのに被害を受けたので被害者になるのです。そして加害者が人間だったら犯人に仕立てます。自然災害でしたらどうしようもなく運が悪かったと受け止めるしかありません。

 

 陰謀論の様に自然災害だと見せかけて実は人為的に災害を起こしたとなると、今までの自然災害でどうしようもないと思っていた人々は誰かが人為的に災害を起こしたらたちまち被害者に簡単になりますね。陰謀を行う人物がいる、そいつが加害者だと言うでしょう。

 

 善悪、正誤の基準を強く持つ人はどんな人になるかと考えて見ましょう。

 

 非常に正義感の強い人になります。悪に対して絶対に許せない姿勢を持ちます。弱い人々を利用して悪を働く悪人どもを退治するヒーローは憧れの的でしたね。私は小学校のときにヒーローはかっこいいなと思ってました。自分もソン何人物になりたいなと思ってました。しかし、これは正義中毒になります。善悪がハッキリしているのでいつもそこには悪が存在しています。だから許して、愛して、一つになりましょうなんていう考えは観念的になります。いつも善悪に縛られて、人を無条件に愛することは出来ないですね。悪者、悪を許せないのです。

 

 教会が分裂して、分裂してから教会が絶対に許せないと言います。家庭連合のブログ村が証明しています。どうして家庭連合のブログ村の住人になって叫ばないといけないのですか?それは正義感に強い人が多いからです。間違った教会を許せないからなんです。そうではありませんか?他に理由がありますか?

 

 これを繰り返すと自分を見つめることは永遠にないでしょう。自分を見つめてしまったら最後だからです。今までやってきたことを否定しなければ自分を見つめることができません。

 

 簡単に言いますと、今まで築いてきた理想を自分自身に当てる人が一人もいません。今まで訓読、み言葉拝読、真理の勉強とか色々とやってきて、自分自身の知識も豊富になりました。感動するところもありましたがそれを自分に果てはめてみましたか?自分を見つめて自分を分析して自分に当てはめたかと言うことなのです。これをしないと何になるかと言いますと、イエス様が言われた偽善者になってしまうのですね。色々と語るが、色々と非難するが、批判するがそれを自分に当てはめることはないということですね。これを偽善者と言うのです。

 

 自分を見つめ、自分を分析して、理想を自分に当てると何が起きるかと言いますと、善悪、正しい間違い、神とサタン、悪魔がなくなるんですね。綺麗さっぱりになくなります。霧で見えなかった、自己の位置と状態が見えてくるのです。自分がどのような状態でどこに立っているのか見えてくるのです。それは、立ち込めた深い霧が完全になくなってしまうように消えるのです。そして同時に堕落性もすっきりと消えてしまいます。

 

 

 

 

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