私は感覚人間 #27 人間の外から内へ!

 

 「人間の外から内へ!」と言う題名です。外と内のその境はどこにあるのでしょうか?実体の世界では自分の皮膚を中心として外側と内側です。この外側と内側を詳しく考えると面白いですね。

 

 そこで新たなことが分かりました。

 

 10、感謝はいろいろな関係で成立。

 先回の記事ですでに説明していますが。自分の内面が表れて感謝と言う言葉になります。それは自分の成長を感じたときに感謝と言う言葉が本来は出てくるはずでしょう。それは感覚から表れているものだからですね。しかし、感覚から表れないで、概念で表すと私達が使ってる感謝と言う言葉なのです。とにかく言葉を言うことで、感謝できないことを感謝しようと努力することなのです。ここにはすでに感謝できることと、感謝できないことが常にあるのが分かりますね。すなわちこれは自分の皮膚を中心として外側で起きている事なのです。ところが感覚の世界ではそれは自分が成長した自覚を感じたときの感覚だと言うことなのですね。願いがかなったときに良しとされた創造主の感覚ではないですか。だから私には感謝とく言葉は消えてしまっています。

 

 11、私には壁がない。

 善悪の壁、正誤関係の壁、よい行いと悪い行いの壁、全ての二極関係を作ってる壁が私にはありません。実は感覚の世界にはそれがないのです。私達は生活の中でどれくらい決め付けて生活していますか?決め付けないと不安で仕方がないからでしょう。白黒はっきりさせなければ不安で仕方がありません。先日AAAの事務所に行ったときにある女性はことごとくいろいろなことを確認してしていらっしゃいました。その姿をみて、昔はこのように確認することは良いことだと思っていたのですが、結局はいろいろなことがおきても確認することでそれを防ぐことが出来るという、対処できるという安心感から来るのでしょうか?後で言い訳できるからでしょうか?分かりませんが、かなり確認していましたね。そのような人は沢山います。ビジネスの世界では明確にして、報告、連絡、相談をしながら布石をうって発展させようとしますから、それが怠ることはいけないこととして考えられています。私にはそのような壁がないので、ビジネスはダメなんです。さらに組織に入って組織の責任者になるなんて出来ないことなのです。組織の運営が出来ません。感覚を中心とした自分自身は無理なんです。いつも多様性にたいして相対するための自分の位置と状態を保つためには決め付けたらもうお終いなのです。だから白黒思考とか二極思考はしません。いつも中間的な、確率的な志向をします。「知っている。」と言う言葉がありますね。これが「知ってるかもしれない。間違っているかもしれない。」となります。「私は正しい。」と言います。しかし、私には言えません。

 

 12、私のユートピアの創造

 この私のユートピアの創造は面白いです。人間は地上に天国を創ろうと一生懸命に頑張っています。地上天国がすなわち天上天国になると言う説明がしてあるのですが、その地上天国に履き違えがあるのですね。それは地上天国と平行にして建設しないといけないのが自分自身のユートピアなんです。なぜなら、世界が二つあるからなのです。「世界の中の私」という世界と「私の世界」があるからなのです。それは自分が責任をもって作る天国ですね。普通は自然にそれが出来たかもしれませんが、それが出来なくて、人間は概念で生きる様になってしまったので概念でユートピアを作っています。理想の世界が頭の中にあるでしょう。その頭の理想の世界を現実に作ろうとしているのです。それは別にかまいませんが自分の中に作ることを忘れているのです。

 

 

 

 以下は以前に書いた私の記事です。実際に現実を自分自身の感覚で見つめていくと分かる世界です。 

 

 1、関係で成り立つ世界とそうでない世界。

 一つは人との関係で成り立っています。その関係を何らかの力があり切り離すことができないのです。この世の中はすべてのものには関係性があります。存在の根本原理でもある四位基台は主体と対象の関係を説いているでしょう。だから関係性を抜きにして現実を見ることは無理なんですね。この現実というのは物質的な、現象世界のことを言います。

 

 2、言語の概念の世界と感覚の世界。

 次は言語です。私達が日常使っている言語を考えて見ましょう。言語は概念があります。意味がありますね。そして言語は記号を用います。英語はアルファベットがあります。「英語のアルファベットは現在26文字の大文字と小文字がありますが、最初は23個の大文字しかなく、小文字ができたのは8世紀だといわれています。 現在でも、イタリア語は21文字、ギリシア語は24文字、フランス語、ドイツ語は26文字、スペイン語は27文字、ロシア語は33文字です。」(インターネットより)これらの文字列で言葉を作るんです。これですべてをあらわしています。会話も書かれている本もすべてを文字という記号で表せてしまうのですね。そして言葉の意味、概念があります。この意味、概念を人間は共有しています。

 

 3、概念の私と感覚の私。

 言葉の概念というのはみな同じなんです。77億人の人々がいますが、子供のころから学ぶ第一言語がありますね。言語を学ぶときに子供たちは言葉という記号と意味を結びつけながら学びます。そのときに子供たちというのは言葉が先にあるのではないのですね。感覚が先にあります。言葉を話すのが遅い子供がいますが、この子は感覚重視の子供なんです。感覚で生活していると事が余り重要ではなくなります。だから言葉を用いたいとは考えないので話すのが遅くなります。この感覚は人間共通の感覚なのですね。そして翻訳が可能でしょう。いろいろな言語があったとしても、翻訳がどうして可能なんでしょうね。これは感覚が同じで言葉にある概念が同じなんで通釈が可能なのです。人間は同じ感覚を持っているということがわかります。一人一人の人間が持っている感覚はみな同じなんです。それを共有したいときは言語を用いてお話しすることで共有できるようになります。それが何かの切り離せないつながりになっているのかも知れません。

 

 4、私の存在。

 言葉から始まるすべてのものが、人間が一人一人が違う存在ではないということを否定している環境に成ってているのかも知れないのです。そうしてできてきた環境のなかで存在する私の姿が「世界の中の私」というのですね。ですからこの世界では私が一人だけとは言えない関係になっているのです。だから何かのつながりを感じるのでしょう。

 

 5、自分の感覚と人の感覚の違い。

 見るもの聞くものはみんな同じように見ていて同じように聞いていると思っている。私が聞いているんだからほかの人も聞いているし、私が理解していることも同じようにほかの人も理解していると思うのです。常識ならみんな知っているだろと思うこともありますね。常識は多数の人々の中で認められていることなのです。たとえばよく例に使われますが、テーブルの上に赤いりんごがあり、それを自分も含めみんなが見ていると、みんなも同じものを見ていると思うでしょう。でも中にそれはネクタリンだという人がいると、変なやつだと思いますね。ネクタリンは桃の一つでりんごに似ています。そうして同じものをみているということで、それを共有してしまうとみんな同じ人間になってしまいます。同じも尾を見ても、自分が感じているようにほかの人も感じて当然だと思っているでしょう。変なことを言うとその人を変な人と評価します。自分が感じていることはほかの人も感じていないとおかしいということなのです。別にバナナとして見えてもおかしくないんです。目から入る情報が脳で分析されてバナナに見える場ありがあるかも知れません。脳に何らかの損傷があれば可能でしょう。

 

 6、物質の法則とそれを越えた世界。

 物質的に人間は別々なのです。自分の皮膚を中心にして外側と内側にわけると、まったく別々であり、どうして重ねあうことができるのでしょう。物質の法則に反します。人の中にははいれないでしょう。衝突してしまいます。一人一人が自分の皮膚を中心として別々の内側があるのです。それが一人一人の脳なのです。一人一人の脳が独自の幻想世界を作っています。一体化しましょう、一つになりましょうといいますが、何でもって一つになるんですか?体では無理なんです。だから体である皮膚を中心としての内側にあるものは別々なんです。

 

 7、意識と体内感覚。

 私達の喜怒哀楽は体内感覚が先なんです。いやいや自分の感情が先でしょう。なんて変なことをいうやつかといわれてしまいます。しかし、怒りの感情がありますね。いろいろな現象をみて私達は怒り、イライラを感じたりしますが、これは単純に自分の脳が先に脳内物質、神経伝達物質をつくって体に影響を及ぼしているのですね。それを自分は多様性のある環境とあわせて怒りをそこに表しているのです。だから様々な怒りがあるように見えますが、外部からの信号で脳が制御して表している基本的には体の体内感覚なんです。それを環境とあわせて環境が悪いというのが人間の姿なのです。それがわからないからなのですね。

 

 8、時間と空間は相対的である。

 ほかの人と同じ時間空間に自分が存在していると勘違いしている。大体時間の長さとか時間の存在は意味が違うのですね。時間の長さが場所によって違ったり、相対的なものであって、一人一人が違うということを知りません。絶対時間と絶対空間があってそこに人々と私が存在していると思っています。

 

 9、私達の責任と私の責任。

 これが最大の難関になります。一人だと私の責任になってしまう。これは非常に認めがたいことなんです。記事を書いてきましたが、自分の日常の意識が私の責任だと認めることができる人はどれくらいいるでしょう。これは絶対に認めたくないんですね。死んでも認めたくないというほどのことなのです。被害者意識になれません。自分で勝手に作り出した仮想世界で怒りを作り、被害者意識になっているに過ぎません。そして人を加害者に立てるのです。怒り、いらいら、いろんな捌きの思い、非難するおもい、差別の思い、疎外する思いとかいろいろなマイナスの思いというのは自分が勝手に作り出した仮想の世界のものであって、それを認めることは自分の死に匹敵するものなのです。これが最大の難関なのです。これを超えられないので別々な存在とは認めがたいのです。認めてしまったら大変なことになってしまうからなのです。

 

 

 

 

 

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