私は感覚人間 #26「感謝」って何だ!

 

 「感謝」と言う言葉を良く使います。「「感謝」とは、優しさ、贈り物、手助け、好意、その他の厚情を受けた人物がそれらを施してくれた贈り主に向けて示す、ありがたいという気持ちやその感情を表すポジティブな反応である。 「感謝」の経験は歴史的に幾つかの宗教世界の焦点となっている。 」ウィキペディアでは説明されてました。

 

 この言葉は人間関係、なんらかの関係で使われてますね。自分を環境の関係で成り立ちます。初めに感覚から入りますと、自分がいて環境との関係から得られる何らかの感覚があり、その感覚を「感謝」という概念に置き換えています。皆さんはよく「感謝」と言う言葉を使いますね。基本的には喜びを感じるときです。喜びは願いがかなったときでしょう。その願いがかなえられたときの感覚がありますね。

 

 人間の願いとは何でしょうか?人の助けを得ることですか?人から恵みを得ることですか?神の保護があるからですか?守られたからですか?あるいは奇跡を感じたからですか?人から理解を受けたからですか?色々と考えられて自分が何らかの喜びの感情を感じたときに表れるものです。しかし、私たちの喜びはいろいろな次元がこのようにして存在しています。そして、その喜びを感じたときに基本的に感謝できるのですね。それを言葉で表現すると「感謝」と言う言葉になります。

 

 実はこの「感謝」という言葉を使うことで様々な弊害を生んでます。「感謝」の本質が見えなくなっていると感じます。それは感覚に戻さなければならないからですね。「感謝」と言う言葉の概念にしてしまうと非常に外的になります。だから環境によって色々と変化してしまうのです。その反対に「感謝」出来ないということもも生じるものですね。ここが問題です。だから、お経を唱えるように言葉で「感謝」と言う言葉を使ってマイナス面を排除するように努力します。これでは何時までたっても変らないです。死ぬまで変りません。

 

 実は本質は言葉ではなくて感覚にあるのです。今までの内容は象徴世界のないようです。「環境は実体である自分自身の世界を映し出した象徴の世界である。」なんです。この言葉は記事を書いている最中に表れました。素晴らしいですね。

 

 自分と言う実体を映し出した環境を見ながら象徴的に「感謝」と言う言葉を使います。象徴的なので少しは実体にとっては良いかも知れませんが、実体は自分がしなければならないのです。自己の責任で自分の心を「感謝」の実体に作らないといけないと言うことなのですね。ここを誰一人として見つめることが出来ません。なぜなら全ての人々は「感謝」と言う言葉を美しい言葉と言うところで留めているからです。誰一人として「感謝」の実体になろうとは努力しません。

 

 だから私は今日の「感謝」は何ですかと聞かれますが、実のところ言葉がないんです。だからそこで何らかの言葉を作りますが、これが本質ではないのですね。

 

 「感謝」の実体はなにか?

 

 それは自己の成長、自身の本来の良心作用がかなえられたときの達成感なんです。人間の良心作用は階段を上るようにして、いろいろな環境の中で働きます。自己創造するために働きます。創造主が創造を終えるたびに良しとされたその感覚ですね。人間も自己創造の段階的創造が終わるたびに良しとしたその瞬間に本来の「感謝」と言う感覚を自身の内面に持つことが出来るのです。

 

 そうではありませんか?

 

 こんなことを誰も話しません。誰も書いたりはしませんので、自分では良いかどうか分かりませんが、自分自身の感覚の一部をシェアーしました。

 

 

 

 

 

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