ほぼ全員が指導を受けていない人は指導されなければならないといいます。人を指導する、人を教育するという言葉は果たして適しているかと考えるのです。誰一人としてこの様な疑問を持つ人はいないですね。

 

 人を指導する、人を教育するというのは過去の人が、現在いる人がすでに何らかの形で積み上げたものであり、それを言葉とか動作で伝えようとするのが指導ではないか、教育ではないかと思われます。今までの出来上がった枠の中での教育であり、指導なんですね。これは今までのその枠の中で出来上がった内容を勉強するのは悪いことではありません。

 

 学校教育も今までの出来上がった内容を教育の教材として使っています。それを知育、知識の教育と体育の体の教育に使いますね。そして良い点を取った子供たちは優秀な子供たちであるといわれます。記憶力の良い子供たちは優秀な学校に行くのです。これが今の学校教育です。

 

 大学に行って、大学院に行って、いろいろな文献とかいろいろな過去のことを学び、非常に詳しい人々がいますね。そんな会話を聞いているとすごいなと思います。いろいろな表現があります。でも、世界の現代の人々が考えている事を文献にしているので、それを勉強するのも良いでしょう。そうすることで視野が広くなるというのはあると思います。

 

 問題は何かといいますと新しいものが表れないということです。人を指導する、人を教育するというこの言葉は何を示しているかといいますと、今までの枠で生きてくださいという意味なのです。新しいことを生み出そうとする人は仲間はずれ、非常識、変人扱いされますね。知識の乏しい、優れない人もいるかもしれません。新しいものが生まれる可能性があるのです。

 

 何を指導するんですか?何を教育するんですか?伝えるのは概念ですね。概念は今まで積み上げられたものです。だから今まで積み上げられた枠の中でのものを教え、指導するのです。そこからは何も新しいものが生まれません。

 

 だから私は、指導者になれません。教育者になれません。何を指導してよいか分からないからです。何を教育していいか分からないからです。組織の中心者にもなれません。なぜなら自分の中にはハッキリした指導、教育、方針というものがないからです。私は私が主人公ではないんです。人が主人公なんですね。自分で作った物語の中で自分が主人公になって生きてほしいと思うのです。教育、指導は私が作った物語の中で、主人公になって生きてくださいというのは結局は僕のような立場ですね。その枠内でしか生きることが出来ないでしょう。

 

 子供の教育もそうですね。子供を教育しているといいます。教育しないといけないというのです。一見素晴らしい様に思えますが、親の教育という言葉は親の中で生きてください。親の中で育ってくださいという意味なのでしょう。だから自立できない結果に陥ります。放任主義で環境を与える親の方が自立できる子になります。親の強い教育の枠が、私達に置いては原理という強い枠、善悪の枠があったら、その枠の中に納まるように教育します。だから自立できないでいるのです。

 

 本来の教育は創造主の創造のなかにあるのです。それは環境を与えるだけでよいのです。創造主は人間始祖に創造主の性稟と素晴らしい環境を与えられました。そして完成しなさい。なんでもして良いので自由に喜び、完成しなさいという個性完成がありました。

 

 この個性完成はなんだかわかりますか?これは指導とか教育ではないのです。原理講論では天使長が存在していて、天使長が指導し教育係であると教わりましたね。しかし、もしそうであっても具体的に概念のようなもので教えるものはなかったでしょう。至って感覚の世界なのです。個人の個性完成は感覚の世界です。個人と環境との関係で自分の感覚を頼りにしながら成長するんです。

 

 私達の生活では私と人との関係があります。感覚は私自身しか分かりませんね。しかし関係は人との関係であり、そこには指導、教育という概念が生まれます。言葉で伝えられるからなのです。ボディーラングエッジは限りがあります。限界がありますね。だから言葉を作って言葉で伝えるのです。これが教育ですが感覚を失った人間の姿があるのです。

 

 自分の生い立ちを振り返ってみて、社会に適合できないで一生懸命にその枠の中に入り込もうとして努力してきて、非常に難しい人生でありました。その理由がこれにありました。自分はいたって感覚人間だということです。だから私には「人を指導する。」という言葉がないのですね。

 

 

 

 

 

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