これは真理とかという言葉ではなくて認めるべき内容です。それは私達の日常に意識です。意識は後追い意識です。

 

 運動準備電位

 「自発的運動に関する研究から、意識的決定の体験は行動に先んじない事が確認されており(つまり後追いする)、脳内で神経細胞の活動が始まってから数百ミリ秒後に意識的決定の体験が起きる、という順序が確かめられている。このことから「意識とは自分の現状をモニター(監視)する機能である」と結論付けられつつある。 つまり意識はモニター監視した結果をフィードバックする事で、その後の行動に反映するという形で間接的に行動を制御できるが、その瞬間瞬間に行動を直接的に制御しているのではない、といったことである。簡潔に、私たちが持つのは自由意志(free will)ではなく自由拒否(free won't)だ、と表現されることもある。意識的決定と運動に関する先駆的な研究は1980年代にアメリカの生理学者ベンジャミン・リベットにより行われた。」

 

 これはどういう意味かと言いますと自分が意識したとき、自分で意識している事を間違いなく確信しています。疑いの余地もないでしょう。ところが、その意識は私が意識したから意識になっているのではないのです。これは人間の機能です。だから認めないわけにはいかないのです。意識は無意識から表れると言われて氷山の一角とも言われてますね。本当かどうか分かりませんが、無意識から比べると意識はほんのわずかだと言うことなのです。皆さんこれを知ってください。み言葉の真理がどうのこうのではありません。それ以前の問題なのです。

 

 実は自分が意識しているから意識になっていると思っている意識は無意識が作っています。この無意識は何によって作られているかというと自分の脳なんですね。自分の脳が入力信号を分析して意識としてあげているのです。入力信号と言うのは私達の肉的互換のことを言います。視覚からの情報、聴覚からの情報、臭覚、味覚からの情報、触覚の情報が脳に入っていき、それを編集して評価するのです。そしてそれが意識として挙げられます。その意識を私達は意識として感じているのです。このことを知らないといけないのです。

 

 「裁き」というお話をしました。二世を本当に迎え入れたいならば、私達の裁きの目を取り除かないといけないのです。善悪、正しい間違い、良い行動間違った行動という評価をしますね。その評価は自分の脳がしています。その自分の脳は一体誰が学習して来ましたか?自分が学習して自分が作った脳でしょう。その脳が評価しています。意識として表しているのです。

 

 だから生活ではどうなるかと言いますと、どうしても人を裁いてしまう。どうしても人を愛せない。あの言動が許せない。あの行動は悪い行動だ。どうしても怨讐視してしまうとか上げれば限りがないですね。どうしても思ってしまうのです。どうしても裁いてしまいます。だから二世を見たときに絶対に裁きの思いが表れます。今までそうしてきたでしょう。自分の子供にも正しいことを教えないといけない、間違ったことを教えないといけない、良いことを教えないといけない、み言葉の善悪を教えないといけないと思いながら教育してきた人は、ほかの人を見ても同じな尺度で測ります。そこから抜け出ることが出来ないのです。それで二世と教会に迎えないといけないと言うのですか?私は無理だと思います。帰ってきてもいずれ裁くでしょう。帰ってきたことを理由にあれこれと教え込むでしょうね。100パーセント無条件で受け入れることは無理なんです。

 

 なぜかと言いますとこれは人間の意識から来ているからです。この自分自身の意識に真剣に取り組まないと行けなことを過去の記事で何度も書いてきました。どうして自分の脳が作った意識なのにその原因を他に求めるんでしょうね。他の人によって、ほかの人の行動が原因で自分の脳が判断して自分の意識に上がったというのですか?皆そのように言いますね。自分に原因があるなんて一点も認められませんね。悔い改めを何回しましたか?今まで何回経験がありますか?自分が間違っていたことを認めることでしょう。自分に原因があったことを認めることでしょう。その悔い改めを何度して来ましたか?実はそれを毎日するんです。瞬間、瞬間が悔い改めです。意識は自分が原因なので被害者意識になったら自分が原因だから被害者意識になってはならないのです。被害者意識になったら自分自身がまだ幼いことを認めないといけないです。自分がもっと成長しないといけないと自覚するのです。まだその程度の自分自身を嘆かないといけないでしょう。それが出来てません。

 

 なぜかと言いますと、真理といわれているみ言葉が概念で終わっているからなのです。人に教えると言うことはどういう意味かご存知ですか?感覚を教えられないのですね。感覚を教えるのはやらせてみて自分で学ばないといけません。だからお知れられないのです。やらせて自分で感じて学ぶのです。しかし、’教えるとか教育するとかと言うのは、概念なんです。お分かりですか?概念なので何をしないといけないかと言いますと聞いた人の責任が残るのです。

 

 話した人は教えてやっていると思っているでしょうが、教えた人は無責任なんです。教えた人には責任がないです。教えられた人にそれと感覚に戻さないといけない責任が残ることなのです。教えた人にはその内容をその人の感覚に戻すことは不可能なのですね。これを誰も知りません。それを考えないので平気で教えるでしょう。教えたらそれを感覚に戻せるかどうかを心配ぐらいしてあげてもよいではありませんか。しかし、教えている人は私に言わせれば無責任です。

 

 それを自分たちに子供にしているのではありませんか。だから私は子供には教えられないで、感覚をどうにか感じれるようにしてきました。それは自分自身の良心がなければ無理です。子供の良心を感じ取れる自分の良心がないと、子供の良心を無視して言葉で教え込みます。このことを悔い改めないといけないのではありませんか。私自身は自分の意識が自分が原因となって現れていると認めるので、いつも自分はこんな程度の人間なのかと自分を評価しています。いつも情けない人間だなと思っています。

 

 

 

 

 

にほんブログ村 海外生活ブログ ロサンゼルス情報へ
にほんブログ村