「位置と状態」の詳細

 

「「位置と状態」については語られてますが、これが一体何を意味するのかを説明していません。位置というのは自分自身を受け入れて、自分自身の立ち位置、すなわち現在位置を認めることです。それから状態は自分の全てを受け入れることが出来る状態です。これが位置と状態です。これを喪失した人間の姿が現代に生きる人間なのです。現代の人間に表れています。It talks about "position and state" but doesn't explain what exactly this means. Positioning means accepting yourself and acknowledging where you stand, that is, where you are now. Then the state is a state where you can accept all of yourself. This is position and state. The human being who has lost this is the human being who lives in the present age. manifested in modern humans.」

 

 これを認めると生活がどのようになるかを考えてみましょう。

 

 自分自身を受け入れると言う意味は何かといいますと、自分自身の意識を受け入れると言うことです。全ての自分が感じている意識の原因が自分にあるということを認めることなのです。日常の生活でいろいろな思いがおきますが、この自分の思いを分析する力が必要です。自分の思いを分析する人はかなり少ないでしょう。自分の思いが自分のものだと思っていて何がおかしいと思われるでしょう。

 

 被害者意識と言うものがあります。誰でも被害者意識になります。その出来事の悲惨さにもよって被害者意識になるそのレベルもかなり違いがありますね。悪戯されて簡単に被害者意識になる場合から、自分の最愛の子が殺されたという事件まで色々とあります。最愛の子を失ったときと言うのはかなり強烈な被害者意識になります。これが天災ならば仕方がないと思わざるを得ないのです。加害者が天ならばどうしようもないからです。

 

 だからこの被害者意識は同じ被害でも個人差が出てきますね。この被害者意識について少し触れてみたいと思います。最愛の子をなくしたときに加害者がいるとします。普通はその加害者を許せないです。接待に許すことが出来ませんね。浅い愛の息子がなくなったのですから。ところで息子の立場を考えてみると息子は何も言わないです。息子は意識がなくなって、それから肉体の生命がなくなっただけなのです。だから息子は被害者ではないのですね。人間は誰でも死にます。死んで悲しむのは生きている人々なのです。生きている人々がどうのこうの言うのです。自分が死ぬときは自分の意識がなくなってあの世に行くだけですね。でも、周りの人々が悲しんだり、あるいはいなくなってせいせいして喜ぶ人もいるかも知れません。だから関係による評価だけなんです。自分の死とは関係ないことが分かります。それは生きている人々がどうのこうのと思っているだけです。愛する人がなくなって寂しいとか、今まで愛していた子がいなくなって、自分が尽くしてきた愛が失われた気分がするとか、失う悲しみを感じるというのは生きている人々のことなのです。死んでいく本人は意識と肉体がなくなって霊界に行くだけなんです。

 

 被害者意識というのは自分が受けた痛みがはじめにあります。まずはじめに痛みがないといけないでしょう。そしてその痛みの原因を人間の脳は意識に表します。ある行為を受けました。その行為で痛みを感じました。その痛みの原因が意識に表れます。その意識を処理したいと思います。痛みを和らげたいのです。その方法がどのような仕組みになっているかといいますと、その痛み感じた瞬間に人間は被害者意識になります。すなわち他の人、自分に痛みを与えた張本人がいるとその張本人を加害者に仕立てて自分が被害者になるのです。その関係で自分の痛みを和らげたいと思うのです。これがほとんどの人が抱く被害者意識ですね。これが普通なのです。

 

 この状況をもう少し詳しく見つめてみましょう。原因が加害者にあるという自分の脳の判断です。だから自分の意識に即座に表れます。それは普通なんですが、原因が自分の外部にあるということでしょう。だからそれは怒りの感情になって表れています。自分の体の血圧が上がり、眉間にしわがよって、沸騰しているのは体がそのように先に現れているので、それに付随して怒りの感情になっています。これは原因が自分の外にあるということを疑わないからです。

 

 加害者の行為は結局ただの物の動きでしょう。物質が動いただけなんです。ところがその動きを見聞きして、その人が加害者であると評価した人は誰なのでしょうね。この評価はいろいろな人がいますが、同じではないでしょう。一人一人違うはずなんです。だからこの評価は自分自身の評価なんだと言うことなのですが、それを人間は自分を見ないで外ばかり見つめて外に原因があるので被害者になります。しかし、この原因が自分の内部である、自分が作り上げてきた、自分の脳の計算による意識だとしたらいかがですか?私が作ってきた自分の脳が計算し、表してくれた意識が痛かったのですが、それは自分の脳が自分自身に現在の判断の現状を示してくれた、自分の脳の状況を示してくれたのだと認めることなのです。これが何かといいますと自分を受け入れると言うことなのです。自分が作った自分の脳が示した結果を受け入れることなのですね。これは初めて自分の原因が自分の中にあるということを認めて初めて可能なのです。

 

 これが自分をいつでも受け入れられる状態なのです。ここには自分の現在位置と自分の現在の状態があるということですね。これはどういうことを意味するかをさらに掘り下げます。

 

 実はこの自分の現在位置と自分の現在の状態をベースとして人間の良心が働くのです。ここが非常に重要なところであって、どうして人間がこれを失ったのかと言うことを推測できるのです。良心が完全に麻痺してしまった原因が見えてきます。良心が完全に麻痺したので、それを言い換えると自己の位置と状態を失ったという表現になるのです。それを原理講論で説明しているのですね。人間の本来の良心については触れられていません。良心という言葉は使われていますが、創造のための良心、自己創造のための良心の説明がされてないのです。

 

 何故、良心という言葉が出てくるかと言いますと、エバの堕落時にエバは一体何をしたのかを考えれば分かります。時ではないのに、何らかの現象をみて、その現象を見ながら何らかの対象からの誘惑があったと考えられます。それを原理講論では天使長といわれてます。ここにもう一つの仮説を立てるのです。それは類人猿、ホモサピエンスという人間ではなくて、動物から人間に進化したその過程があると考えるのは妥当の考えですね。それはいつか分かりませんが、人間に近い人間の姿をた動物が存在したと考えるのは科学的にも可能です。天使長はどうも科学的に現実的に考え難く、それは信仰で信じるしかないのです。動物の世界では近親交配はまったくないとはいえません。だからその何らかの誘惑をエバが受けた可能性があるという仮説なんです。しかし、エバはそれを良心に従って完成させるべきだということなのですね。近親交配を迫るそのものには良心はないでしょう。宇宙の法則にしたがって生命として生きているだけでしょう。しかし、人間始祖は自分自身の責任を果たす必要があるのです。それが自分の良心に従って完成することなのですね。

 

 どうして、完成が初愛なのか?これは良心の願いが時のときに関係を結ぶことだからなのです。だから良心の完成はすなわち個性の完成になるのです。その良心の本質が誰にも見えなかったのです。今の人々のほとんどの人々には見えないでしょう。だから良心と言えば、外的な世界との関係の評価に使うので善悪の評価による良心、正しい間違いの評価に夜良心、よい行い悪い行いの評価の良心として理解されているのです。

 

 いまだ堕落をその行為だけをみて悪として理解している人がほとんどですね。私にはそのようにみることが出来ないです。エバが自身の良心の声を無視したことでエバの良心は完全に麻痺したとかが得るのが妥当ではないかと思います。だから良心が麻痺したということを自己の位置と状態を失ったと表現します。そしてその位置と状態を再び取り戻すためにはそこに何らかの条件が必要だと言うことで蕩減条件を説明していますね。それは自身の良心を蘇生するためのものなのです。それは外的なものからはじめなければなりません。外的なものからはじめると外的な法則に従うべきなのです。だから復帰も創造原理に従って復帰されるので復帰原理というのです。二つに分離して一つにすることなのです。二つに分離して一つになれないのを堕落性を脱ぐための条件を立てながら一つになる運動をするのです。

 

 その条件は象徴なのですね。それが本質ではありませんね。それの過程を通じなければ復帰できないからです。だから二つに分けて、分けると戦いが生じるのですが武力ではなくて愛で一つにしながら、死亡の血を流して一つになることで象徴的な条件を立てられたわけなのです。私は詳しく勉強はしません。アダム家庭からイエス様の路程まで詳しい人がいますね。私は勉強しません。そこには本質がないからです。象徴的条件を立ててるだけだからです。イエスキリストはそれではいけないと言うことを示されましたが、誰一人理解できませんでしたね。象徴的条件は実体の蘇生のためなのです。すなわち人間の良心の蘇生にありました。

 

 

 

 

 

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