「私の世界」(219)不平不満

 

 不平不満が表れるのは何時でしょうか?はじめに意識があります。何かが起きてそれに対する意識が生まれます。自分が一生懸命に頑張っていても認められなくて、ある人が認められたときにその人に対してどんな思いを抱くのでしょうね。そして、その人は大喜びして自分に喜びを伝えに来たときに喜べない自分をどうしますか?自分の方が頑張っているのに認められなかった場合に、その状況をどう考えましょう。

 

 信仰の指導ではこんな思いになったらそれを手放すとか言います。その人の喜びを自分の喜びのように喜んだら勝利できるとも言うでしょう。でもなかなかそれが難しいです。なかなか越えられないことでしょう。私はそんなときに自分の動機を見るのです。どうして自分がそんな思いになったのかその原因を自分の中捜し求めると、自分が認められたいとか、自分が誰よりも苦労してきたとか、それなりの実績を作ってきたとか、そんな思いを持ってるが為にそんな試練にうだけなのです。自分に原因だあるということでしょう。それを認めることが出来ないのでしょう。

 

 そしてそれは後追い意識なんで自分の作ってきた自分の脳がそのような意識を表しているということです。決して自分が意識したから表れたものではありません。脳が作る無意識から現れたものなのです。

 

 自分自身の動機を見つめることが出来ないのです。人の動機を見つめることはしますが、自分の動機を見つめることはしません。私はいつも自分自身の動機を見つめます。何かイライラしたりとか、怒りを感じたり、嫌な思いをしたときにその動機が自分にあるので、それはどこから来ているかということを突き詰めるのです。それはすぐに分かります。

 

 人の喜びを喜ぶことが出来るようにするためにはこの学習が必要です。

 

 怨讐を愛しなさいというのはすでに自分に怨讐が存在しているのです。その怨讐が存在しない立場に立てばよいわけです。その学習をしなさいと言うことなのですね。では、どうして怨讐と感じるかということなのです。ほとんどの人は怨讐は怨讐であって原因は怨讐にあると持っていますね。だから怨讐を愛するには無理やり概念で、頭で自分の気持ちを押し殺して愛するように努力しますが、根本的には解決されません。

 

 どれくらいの人が怨讐の原因が自分にあると感じていますか?真剣に感じている人はいますか。その人は恩讐をあいするなか怨讐がいなくなっていきます。これは自己変革だからです。自分が変ることで自分の中の怨讐がいなくなるということなのです。怨讐は自分で勝手に作っているからなのですね。自分で勝手に怨讐を作っていて、その怨讐を愛さないといけないと言いながら怨讐の中に原因を見出そうとしているが現状ではないですか。

 

 「怨讐を許し、怨讐を愛し、敵を愛し、無条件に愛しましょう。」という言葉だけではありませんか。お経のようにして唱えていますね。だから概念だと言うのです。「怨讐を許し、怨讐を愛し、敵を愛し、無条件に愛しましょう。」と言うのは概念なんです。それを言葉に表しているだけなんです。この言葉を100回、1000回、一生かけて言っても残念ながら変らないのです。換わるのに1000年かかるかも知れないですね。感謝もお経のように唱えます。それで気分が良いからですね。しかし時間がかかります。意識を変えられる学習をしないからなのです。

 

 不平不満も自分で勝手に作って、自分でそれに対して悩んで、それをどうしたらよいか分からないのが現状でしょう。だから、1000年かかるんです。不平不満を自分で勝手に作っているということを知らないといけない、自覚しないといけないのです。そこが始まりです。そこが始まりなんですが、誰一人としてそこに立ててないのです。

 

 

 

 

 

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