戦争へ行ったお父さんへ№1
母を亡くしたとき、何故か不思議と亡き父のことを思い出した。
どうしてか・・・思い返してみると、父が亡くなる時に正座して「お母さんのことを頼むね。」と涙ぐみながら懇願されたことを思い返した。
その思いが却って父のことを思い、この文章を書かさせていると実感している。
父は、大正天皇が亡くなられた年の10月にこの世に生を受けた。
子供時代は、わんぱくで、祖父母を困らせるいたずらを繰り返したらしい。
ただ頭は良かったようで、旧制豊橋中学校受験を目指していた。
しかしながら、その受験日に、日中戦争の戦勝記念の饅頭にネズミの糞が混じるサルモネラ菌事件に遭遇し(自分も罹患したのか?)豊橋中学校受験に失敗している。
父の実家は、明治維新時に岡崎市から浜名郡湖西町白須賀(現湖西市)に移住してきた士族で、代々区長をしていたようであるが、代々事業が思うようにいかず、塩見坂から浜まで土地を持っていたようではあるが、生活はそれ程豊かではなかったようだ。
だから、父の中学校受験失敗には、正直安堵していたようだ。
父は、それに満足せず、高等小学校を就学したのち、給金がもらえる当時の浜松師範学校(のちに静岡第二師範学校、現静岡大学教育学部)を受験し合格した。
元々体育が得意で、在学中に柔道初段位を取得している。
昭和18年になると、太平洋戦争も敗色が徐々に見え始め、戦力不足を補うために、専門学校や大学の就業年限の短縮や懲役免除の廃止が行われ始めた。
この年の10月には第一陣の学徒出陣が行われ、父も、駿府公園を行進する諸先輩を見送った。
翌年、いよいよ、徴兵制も満16歳以上と切り下げられ、父にも赤紙が届くようになった。
出征先は静岡連隊。
平成20年になって、連隊内で戦地の士官の不足を補充するための幹部候補生試験を受験し合格。4か月の連隊での教育を経て、予備士官学校での教育が始まる。
父が志願したのが輜重予備士官学校。
戦地に物資を届けたり、食事を作ったりする部隊を輜重隊というが、「輜重兵卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち。」と揶揄されたように、陸軍の中でも皆行きたがらない科で、当然士官が不足していた。
こうした不足する隊に中学校以上の学力のある兵士が試験を経て予備役として(補充役として)下士官候補や士官候補に選ばれるシステムがあり、平時であれば、下士官や士官になり、一定期間を経た後、予備役に編入され、一般社会に戻ってくるのであるが、戦局悪化した中では、予備士官学校の教育を経て、戦地に下士官や士官として出征し、戦死者が出ている状況であったという。
当時、輜重予備士官学校があったのが福岡県久留米市。
今と違って、新幹線のない中、何日もかけて久留米市の学校についたのが7月。
着いてすぐ、陸軍上等兵に任官。
しかし、一般の兵士からは「スペア。」と陰口をたたかれ蔑まれていた。
そんな中、外出中に父に欠礼した大阪出身の一等兵(応召兵)を投げ飛ばした武勇伝もあったとのこと。しかし・・・人生の先輩であるこの一等兵を痛めつけたことをずっと後悔していたと私に語っていた。
運命の8月。
6日に広島に新型爆弾が投下され、町が壊滅的な被害を受けた。
そして、9日の日。
たまたま、長崎方面に展開していた陸軍部隊に物資を送る訓練中、突然兵舎の窓ガラスが割れて驚き、その後、遠くの空に大きなキノコ雲が・・・
直後、学校から指令が下り、諫早駅に出張。
ここで被災者を搬送せよと指令を受け、兵隊を連れて駅構内へ。
市内から避難してきた市民の姿に驚きとショック。
みんな手から雑巾をぶら下げて幽霊のように歩いている。
担架に乗って運ばれている人も長いぞうきんを持っている。
何だ何だと思いながら、列車に伸せる記録を取っていた。
雑巾と思っていたのは、どう見ても本人の手の皮と肉片だった。
吐き気と憐憫の心を押し殺し、淡々と搬送の準備を整えながら、不遜だと思いながらこの戦争は負けたと痛感したと私に語ってくれた。