III  男色、衆道

 「男色」という言葉は、近代以前の日本における男性間の親密な関係性に対して広く使われていたようである。日本の歴史を通じて、様々な表現の中に、同性同士の(性愛も伴う)親密な関係性を――女性同士に関するものを見つけるのが近代以前には困難であるが――認めることができる。藤原頼長の『台記』、『稚児之草紙』、『稚児観音絵巻』、『葉隠』、旧薩摩藩でみられた兵児へこ二才にせ、世阿弥位は「稚児は幽玄の本風也」と語り、井原西鶴は「色道ふたつ」という言葉を残している。院政期の研究者である五味は、『院政期社会の研究』という著書の中で、「院政期の政治史を考える時、この問題(男色)を抜きにしては語れない」とまで述べている(6)

 男色の歴史を網羅するのが本書の趣旨ではないので、本節では、日本的な精神性のひとつのありようを示している「衆道」について南方熊楠の思想を引き合いに出しつつ、言及する。

 現代で言う「性(セクシュアリティ)」に相当する領域は、近代以前の日本では、「色」という言葉とともに、「道」という言葉でも言い表されていた。

 近世になってから、男色を指す言葉として、「衆道」「若衆道」「若道」「男色の道」などが使われるようになり、「道」という言葉が付くようになった。戦国から江戸初期にかけて、武士の間でみられる男色は、武家社会の作法を含むようになり、「衆道」あるいは「義兄弟の契り」と呼ばれるようになる。衆道は、近現代のような「性の逸脱や異常」という扱いを受けることはなく、逆に「武士道の華」とさえ賛美されることもあった(7)。年上の「念者」と年下の「稚児」「若衆」との間に結ばれる絆は、生死をともにするという強いコミットメントを要請されるものであった。『葉隠』には、「衆道」は、命を捨てることが、「衆道」における最高の境地に達する、とさえ書かれている(8)

南方熊楠注)が、衆道の兄弟関係に強い関心を抱いていたことは、よく知られている。熊楠によれば、衆道における義兄弟の契りと呼ばれるものは、単に性の愉悦を享受するための性的な嗜好ではなく、「兄」と「弟」との間の友愛の絆こそが、その本質である(7)。熊楠は、友愛としての衆道を「浄の男道」と呼び、「男色」と区別して考えていたようである(9)

宗教学者の中沢新一は、熊楠のこのような思想を以下のように解説している(10)

 

熊楠は、男性の同性的な愛には、二重構造があるのだという、とても重要な指摘を行っているのである。いっぽうでは、容姿や心だてに優れた少年に、年上の青年たちが恋情をいだき、少年を肉体的にも自分のものにしたという欲望がある。しかし、その一方では、昔から男の同性愛の世界では、兄弟分の「契り」という要素が、きわめて大きな位置を占めていて、いったん兄分と「契り」を結んだ少年に対しては、邪恋を仕掛けることは恥ずべきことである、という考えがゆきわたっていたのである。つまり、同性愛の世界は、肉体的な欲望と道徳的コードの、ふたつの極からできあがっており、肉体的な性行為だけをとりあげて、この世界を論じたりすると、ことの本質を見誤ってしまうと、熊楠は考えているのである。

「浄の男道」は、このうちの道徳的コードにとくに深くかかわっている……

若い同性愛研究者である岩田準一にむかっては、男色の世界はたんなるアナルエロティックな性行為の様式を中心にできあがっているのではなく、彼が「浄の男道」と呼ぶ、高い精神的道徳的な価値を生み出すことのできる、男同士の友愛の道こそが、その世界全体を支える、根本的な原理になっているのだ、と熊楠はこんこんと説明しようとした。

 

 性(セクシュアリティ)をめぐる南方熊楠の思想は――熊楠が興味を注いだほかの様々な題材と同様に――非常に広範にわたり奥が深い。曼荼羅的とさえ言える。その思想をとても一言で要約することはできないのだが、中沢は、「精神的なものと肉体的なものを対立させて考える、西欧のキリスト教的な考え方では、性愛の人類史を描ききることはできない」という前提を述べた上で、熊楠が「そういうものとは、別の視点にたって、人間の性の世界をのぞきこもうとしていた」と指摘している。

英国の精神医学者のアンソニー・ストー Storr, A は、『性の逸脱』というタイトルの著書の中で、同性愛の男性が相手をよく変えるのは同性愛に充足感がないからだと述べて、「同性愛という生き方には、人を満足させてくれないものがどうしても残るのである。そこでわたしたちとしては、同性愛的な行動パターンを未然に防いだり、別の形に改めたりするための研究を、あらゆる手だてを尽くして真剣に育てていかなければならないわけである」と主張している(11)。しかし、江戸時代の日本にみられる衆道の男性同士の絆の強さをみれば、充足感の無さゆえに相手を頻繁に変えるなどとは言えないことがわかる。逆に、現代日本に生きるゲイ男性が「相手をよく変える」のであれば、それは、近代以前の日本にあった「義兄弟の契り」のような、性愛も伴う同性同士の絆の持ち方が西洋化によって失われてしまったからだ、とさえ言えるのではないか。

ただしここで一点、留意しておきたいのは、現代における「同性愛」と、近代以前の「男色」「衆道」とでは、築かれる関係性の性質がイコールではない部分も多くあるという点である。現代の同性愛においては、対等な「男性」と「男性」との関係性が築かれ得るが、近代以前の男色ではそうではない場合が多かった。

ひとつは、男色においては、両者の間に年齢差がありなんらかの上下関係が含まれていることが多かった。年上の者は「念者」と呼ばれ、年下の者は「稚児」「若衆」などと呼ばれ、年上の者が年下の者に対して、庇護的な役割や教育的な役割をとることが多く、両者の関係性は対等ではなかった。むしろ、対等ではないということが男色の特色であったといえる。

もうひとつは、男色においては、両者の関係性が、いわゆる「男性」と「男性」との関係性ではない場合もあった。近世においてみられた「陰間茶屋」注)では、女装した男性が女性的な役割を取りつつ、客である男性を相手にした。中世寺院における僧侶と稚児との関係性についても、「その内実は異性愛に近かった」のではないか、と指摘する研究者もいる(12)。近代以前の「男色」「衆道」というあり方と、現代の「同性愛」とでは、質的に異なる部分があることもふまえておく必要がある。