札幌のワークショップの日の朝にみた夢。

たまにある、
体感が、「高次とつながっている」ってカンジの夢。

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自分は亡くなっているらしい。
(おそらく、「霊」になっているのだと思う。)

自分にとって大切な「彼」が、「現世」にいる。
(髪の長い男性。髪を後ろで結んでいる。)

彼は、自分が好きだった音楽を流している。

自分の「遺言」に従って、そうしてくれているのだと思う。

自分に聴かせるために(自分のために)、流してくれているのだと思う。

(彼の自分への思いを感じ、自分は、彼への愛しさを感じ)感極まり、
自分は、涙を流す、嗚咽する。

→そこで、目を覚ます。
 感極まった状態は、そのまま同じように続いており、目覚めたあとも引き続き、嗚咽している自分。
 引き続き、涙が溢れる。

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※夢のリアリティの中で生じた情動状態が、目覚めたあとも、まったく同じように引き続いていることがある。
そういうとき、「夢のリアリティ」と「起きたあとのリアリティ」とは、つながっているんだと思う。
「夢のリアリティ」と「起きたあとのリアリティ」との間には、そんなに大きなギャップはないのだと思う。

おそらく、
そうこうしているうちに、
「夢のリアリティ」と「起きたあとのリアリティ」との区別が、なくなっていくのではないかと思う。

それは、
バシャールの言うように、
「起きているときのリアリティ」が、これまでのように、「確固とした」ものではなくなっていく、ということなのだろうと思う。
起きているときのリアリティにおいて設定されている「時間」や「空間」が、これまでのように、「確固とした」ものではなくなっていく、ということだろうと思う。
「変幻自在なもの」へと変わっていく、ということなのだろうと思う。

上記の夢は、
「この自分」と密な関係にある、ひとつのインカネーションなのかと思う。
(パラレルリアリティの「自分」の体験なのかもしれない、と思う。)


上記の夢と関連して、別の夢の断片も(おそらく上記の断片の「前」に)みていた。

→猫がいる。(おそらく、彼のそばに、飼われている猫がいる。)
 →その猫の「魂」に、私の意識を宿して、「現世」にいる彼と、また「触れ合う」ことができるのだ。
  →それが、可能であることが、私に理解される。
   それは、私にとってcomfortingな(慰めになる)体験である。

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※身近だった人のペットとなって、転生することもあるのでしょうかね?