「同性愛」が、どういう歴史の経緯の中で、貶められて語られるようになったのか、以前、調べて考えてみたことがあります。
  以下、そのときに考えたことの概要をまとめてみました。 

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 ここ二千年ほどの人類の歴史の中で、「性(セクシュアリティ)」というものが貶められてきた経緯(流れ)があります。

  人類は、はじめのうちは、「性」を「いかがわしいもの」と捉えることはなかったと思います(はじめのうちは、「性」に対して「いかがわしい」という形容を、与えることはなかったと思います)。  それが、特に、(キリスト教的価値観を基盤とする)西洋の文化が、(今日でいう)「先進諸国」にあまねく行き渡るにつれ、「性」の貶めも、西洋文明を取り入れた国々にあまねく浸透していったように思われます。(それは、聖書の創世記にて、リンゴの実を食べたイブとアダムが裸でいることを恥ずかしいと感じた時から、始まっているのかもしれません。)

  キリスト教的な価値観が世界を席巻する前の、いくつかの「古代の文明」をみてみると、「性」がそれほど貶められず、それほど抑圧されず、豊かに謳歌されていた文明もあったことが推察されます。
  例えば、紀元前2000以上前の昔の碑文が読み解かれ、その時代には、いくつかの地域(例えば古代のシュメール)で、愛と豊饒の女神を奉った神殿において、女神の化身であるとされた人間の女性が、肉体と魂の交歓を呼び起こす目的で、その神殿に詣でた不特定の男性と性交する、という習慣があったことが明らかにされています(そのような女性たちを、今日の学者たちは、「聖娼」と呼びます)。その時代の女性たちは、決してそのことを「いやいや」行なっていたわけではないことも(当時の女性詩人の記した詩から)推察されています。
  紀元前2000年以上の昔の時代には、女性的な価値観に導かれた「母権制の社会」が世界中のあちこちに存在したことが明らかになっています。(「母権制の社会」に対し、西洋において、古代ギリシア以来、現代にいたるまでの数千年は「父権性の時代」と呼ばれます。)
 母権制の社会では概ね「性」は自然と謳歌されることが多かったようです。父権制の時代になってから、「性」がどこかいびつなものに、「性」の中にあたかも「悪」が潜んでいるように、されていったようです。
  「性」を謳歌することに「罪悪感」を植え込んだキリスト教的価値観は、早い時期から「同性愛」をも「罪 sin」の一つとしてしまうことに成功したようであります。 

  ここ二千年ほどの人類の歴史の中では、どの時代にも、「時代精神」と呼ばれるようなものが存在します。ある時代に生きる者は、自らのものの見方や考え方を、その時代の「時代精神」によって大なり小なり制約されます。「時代精神」から完全に自由になることは困難です。
 
 現代という時代に生きる我々が「性」を捉えるその捉え方も、現代という「時代精神」によって制約されている(偏ったものである)と、自覚することが有用であると思います。


<参考文献>
■千賀 一生 タオ・コード―老子の暗号が語り出す 性の五次元領域から迸る秘密の力 (5次元文庫) 徳間書店
■千賀一生 ガイアの法則 ロスチャイルド、フリーメーソン、アングロサクソン――なぜ彼らが世界のトップなのか? 徳間書店 
■N. クォールズ‐コルベット 聖娼―永遠なる女性の姿 日本評論社