段々、痛みの中心が内側に寄って来まして、ちょっと、もう、バイクで乗り出すような状況でなくなってしまいました。先日、外科の先生の所へ行って、大まかな説明を聞いてきましたが、そもそもこの病気、お年寄りさんのかなりの割合で、まさに年齢が原因で発症しているもののようで、まあ、手術して治したとしても、大方、七割くらいの人で、2年くらいで、再び発症してしまうんだという事でした。うーーん、だからって、日々強くなるこの痛みを放置しておく気にはなりませんから、手術は決行します。はい。

 痛みさえなけりゃあ、そこは色々と工夫して、日々の生活もやれようと思うんですが・・・。この分だと、あと半年くらい、ヘタすりゃあ、バイクはお預けって事になりそうで、くやしいです。その間、誰か、私に代わりに乗っていてくれるといいのですが・・・。しーちゃんの知り合いで、元気のよい女の子がいて、250ccに乗れるって言ってましたが、この子なんかどうかなあ・・・。ああ、でも、私のバイク、任意保険が35歳以上の条件なので。。。バイク屋さんは2か月くらいなら放置してても腐りはしませんよって言ってましたが。。。悩みます。

 肩が痛んで夜が寝れないのと、血圧が高めで推移するので、今流行りのギャバの錠剤を少し口に入れるようになりましたが、そのせいなのか、日中にやたら頭がぼーっとしているj事があります。そんな時は血圧がだいぶ下がってますが・・・。

明け方、まだ暗いうちに美保関灯台の明かりをスクープ!バイクの練習のため、毎日、雨を縫って走ってます。それはいいのですが、以前から左肩が痛むなーとは思ってて、春の自動車学校のころからなんですが、リハビリをいくらやっても痛みが改善しないどころか、増々増している現状で・・・。本来出る力の20%くらいしか稼働しません。だからバイクはほとんど左手は添えてるだけという状態でした。ブレーキだけは握れますので、変に車体が傾いたりしない限り、普通にバイクは走ります。お巡りさんには内緒ですが、実はこの状態で3泊4日の1000キロツーリングも敢行していたのでした。どこまでいってもアホはアホなんですなー。そのうち治るでしょと崇をくくっていたのですが、さすがにおかしいでしょとなって、病院で精密な検査をしますと、なな、なんと、左肩の腱板断裂という事になりました。3か月もリハビリして改善しないので、これはもう、手術という方法に頼るしかないかもですね。心おきなくバイクに乗るためにも、早くそうした方が良いような気がします。後のリハビりが一層大変らしいのですが・・・。ああ、自分の寿命がもう少し残ってるか、まじ、心配です。まだまだバイク乗って全国制覇までにらんでいるというのに・・・。

世の中、なかなか、仏教経典をつぶさにひも解くような御仁はすくないのですが・・・。私は一つのライフワークとして強くお勧めいたします。経典と合わせて、その解説であり、口語訳である東大の中村元先生らの本も合わせて読むと、なお、面白いと思います。経典と言うのは実に色々な事が書いてあるものです。もっとっも、教主釈尊は一言も書き留めたものは残しておられなかったそうですので、例えば天台大師の五時八教の教判とか、非常に面白いのですけれども、特にこれについて述べられた日蓮大聖人の書簡などはもう、芸術の域に達しますけれども、ご本人のお言葉で無いわけなので、鵜呑みにするのはどうかとも思います。なので、何しろ、全部ひっくるめて、その心は、核心は、どういう処にあるのかの思索が大事になってまいります。仏教を読み解くヒントを一つ言うてみろと言われれば、私は迷わず、それは仏の方便にありと申します。

 華厳経の中に、仏の境涯に至るまでの,十の段階と言うものが十地として説かれています。これはまあ、仏様が、我々にくらべて、どんなにとてつもなく乖離している事かを知らしめるべく説かれたものでしょうが、仏も人間である以上、すべて真に受けてしまうと、ちょっとなあと言う気はします。またこれも、同じ華厳経の中に、善財童子が53人もの先生について順番に修行をする物語がありますが、これなんぞも、いちいちの修行の内容を検討するより、この世界、どこにでも自分の師匠は見いだせるものだくらいの教えだと持っておけば良いでしょう。ただ、これでも分かる通り、実は仏教は、あれやっちゃだめ、これやっちゃだめ、のものではない事は明らかで、むしろ、あれもやった、これもやったが本当の仏教でしょうと、私は思っています。長くなるので一旦切ります。

     真に仏教的な生き方とはどういうものか
 端的に申しますと、真に仏教的に生きるとは真に仏教的な価値観の中に生きるという事に尽きると考えます。言い換えれば、仏教は勝負であると言われる昔の表現では勝負で、意味が通るのかも知れませんが、現代的に正確に表現しますと、この勝は勝負けの勝ではなく、勝劣の勝です。物事には常に勝劣が存する・・・だから常に勝った考え方を採用したい。こういう考え方実は非常に仏教的なものと言えるんです。それが波及して、高低浅深、奥行きの有る無し、さらにその奥行きの深さにまで注意が及んでまいります。それが仏教徒の頭の作り方であります。日ごろからこれを意識して生活をするわけです。常に勝ったところで定住したいと願うわけです。修業とはそういう事です。
 野球の練習と同じです、例えば外野を守っていて、それに習熟すると、打者が本塁ベース上で打った球が、瞬時にして、ああ、大体これはあの辺に落ちるな、という見当がつくようになります。そこに余裕が生まれ、いちいち打者が打つたびにびくつかなくても済むようになります。泰然自若の境涯です。ですから、泰然自若は野球にも人生にもあるという事です。100メートル泳げる人が50メートルのプールでびくつくという事はまず無いわけです。これがまあ、言ってみれば「勝ってる境涯」だというわけです。
 そこで、一体、どのくらい勝てばいいのかという話になります。私なりに言えば、そうですね、丁度、思いっきり暴れまわってる孫悟空を自分の掌で弄んでいるお釈迦様くらい勝っていれば、まあ、安泰でしょうと申します。こういう事を考えていますと、私などはすぐ、あの、聖書の中で、悪魔とけんか腰にやりあっている万能の神の事を思い起こしてしまいます。悪魔と神はおたがいを馬鹿にして喧嘩を吹っ掛けるくらい、近しい関係にありますが、孫悟空に対峙したお釈迦様というのは、悟空とは比べようもない位大きな存在で、もう、当然、喧嘩の相手にすらなりはしません。ここが仏教のスケールなんです。
 このべらぼうに大きなスケール観を持って生きていくところに真に仏教的な生き方があると言えるのです。

 いつもご心配を掛けております。ご心配を掛けるついでというわけではありませんが、少し近況を書いておきます。
 同封いたしましたお寺からの通達をご一読いただきまして、それに対する私の返信をこれまたご一読いただきましたら、おおよそそれでこちらの近況というものは把握していただけると思いますが、ついでに下記のごとき加筆を加えまする事をお許しください。
 お寺の運営にも色々な形態がある事と存じますが、どうもこの、例えば00家の菩提寺である、浄土真宗の00寺と母の曹洞宗00寺とは印象が随分異なります。 仏弟子たるもの、日ごろからひたすらに教主釈尊の残した大百法を学び、力のあらん限り、これを世の人々にこそ広めんと努力せねばならぬ事になっておりますが、(そして、この努力に対する功徳がいかに大きいかについてはきちんと経典にも説かれております。)とはいえ、お寺だからと言って、何も霞を食って生きておられるわけのものでもないのですから、当然生業(商売)なる物は発生いたします。ただ、00寺さんの様に、さあ、金出せ、金出せ、欠席者も金は出せ、いくら出せ、これだけ出せとあからさまに言ってこられますと、金出す方は興ざめして、なんだか、供養が供養にならない気がするというおかしな現象が出てしまいます。まあ、それが気に入らなければお仲間に入らなければ良いだけの事ではありますが。小生などは、お寺で何か行事をするたびにご坊主大先生から仏教のぶの字の講釈も聞けない昨今に、情けない気がいたします、そういう次第です。いや、今、これからの世の中にこそ、(プーチン子とか、トランプー太郎やらが馬鹿ばっかやっている今の世の事です)この、当たり前の人倫の集大成ともいうべき、釈尊の仏教が必要なのに、誠に口惜しい事です。一体、ぶつぶつ念仏して、自分一人で納得して満足して死んでいくのが仏教ではないのに、誰もきちんとその値打ちが分かっておりません。仏教の理解は仏の「方便」の理解に尽きておると、小生は考えますが、まあ、ここで述べる内容でもありませんから、遠慮をいたします。
 ああ、そういえば先日、小生、めでたく70歳の誕生日を迎えまして、皆様方に身に余るほどのお祝いを賜りましたこと、ここで厚く御礼申しあげつつ、ひとまずおいとまを賜ります。これから暑さをしのぐ(うだる?)毎日が待っておりますが、どうぞ、皆さまくれぐれもご自愛くださいませ。恐々謹言。
      令和8年6月30日記す