『祝祭の陰で 2020一2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』の「はじめに」を全文公開します。 | 雨宮処凛オフィシャルブログ Powered by Ameba

『祝祭の陰で 2020一2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』の「はじめに」を全文公開します。

2022年3月25日出版の『祝祭の陰で 2020一2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)の「はじめに」を公開します。

 

 

 

「平和の祭典」の裏側で

 

 六七五人。

 この数字は、二〇二〇年一月以降、コロナ感染によって自宅で亡くなった人の数である(2021/12/28時点)。

 その中でも、もっとも自宅での死者が多かったのは「第五波」と言われた二一年夏。わかっているだけでも二〇二人が自宅で命を失った。

 医療崩壊と言われ、入院が必要とされる中等症IIの状態でも入院できない患者が続出する異常事態だったあの夏、「自宅療養」という名で自宅に放置された人は一時、全国で13万人を超えた。東京では、救急要請をしても病院に搬送されなかったケースが6割にものぼったという。 

 一方、私が活動する貧困の現場でも事態は逼迫していた。この頃から、炊き出しや食品配布に並ぶ人の数は過去最高を更新するようになっていたからだ。コロナ以前は近隣で野宿する中高年男性しか来なかったような場に、若い女性や夫婦、幼い子どもを連れた母親が並ぶ。コロナで減収し、貯金を切り崩す生活の中、一年以上一日一食で過ごしているという男性。やはりコロナで失業し、さまざまな貸付金を利用してなんとか食いつないでいるものの、食費の節約のために炊き出しを巡っているという女性。職場の寮を追い出され、ネットカフェ生活になった若者もいれば、家賃滞納でアパートを出され、「何日も食べてない」とフラフラになって現れる人もいる。コロナ前、80人ほどだった新宿の食品配布には、二一年夏、三〇〇人を超える人が並び、やはりコロナ前、一五〇人ほどだった池袋の炊き出しには四〇〇人近くが並ぶようになっていた。

 そんな炊き出しや相談会の現場に、「発熱している」「味覚がない」という家なき人が助けを求めて来るようになったのも第五波だ。

 国が原則「自宅療養」という方針を打ち出す中、自宅がない人から陽性者が出たのである。助けを求める人を路上に戻すわけにもいかず、かといってネットカフェに泊めるわけにもいかない。救急車を呼んでも、入院はもちろん、療養ホテルもいっぱいで「検査しかできない」と言われてしまう。現場で活動する支援者たちは、野戦病院のような状況の中、ひたすら頭を抱えていた。しかも、自分たちが「濃厚接触者」となってしまったら、多くの人の命をつなぐ炊き出しや相談会もストップしてしまう。

結局、多くの支援団体が自前のシェルターなどを活用して綱渡りで乗り切ったものの、そんな第五波で露呈したことは、コロナ禍が始まって一年半経っても、「自宅も保険証もない人のコロナ陽性が疑われた場合」を、行政は何ひとつ想定していないという事実だった。

 そんなふうに、支援者たちがボランティアで「命がけ」の支援を続けていた夏、この国では、なんとオリンピックが開催されていた。

 今、こうして書いていても、「パラレルワールド!」と叫びたくなってくる。

 

「医療は限界 五輪やめて!」「もうカンベン オリンピックむり!」

 コロナ患者を受け入れている立川相互病院は、窓にそんな張り紙を出していた。医療従事者の心からの叫びだったろう。

「オリンピックより命を守れ」「中止だ中止、オリンピック」「無観客でもありえない」「医療崩壊オリンピック」「変異種拡大オリンピック」「医者を奪うなオリンピック」「ナースを奪うなオリンピック」「税金巻き上げオリンピック」「嘘と賄賂のオリンピック」

 五輪反対デモでは、多くの人がそう声を上げた。

 世界からも、この状況で五輪を開催することに冷たい視線が向けられていた。例えば大手調査会社イソプスが二一年七月に二八カ国を対象として実施した世論調査によると、東京五輪には五七%が反対と回答。日本では実に七八%が「反対」と回答したという(共同通信2021/7/14)。

 しかし、世論も何もかも無視して強行された東京五輪。期間中は、オリンピック関係者の感染拡大も止まらなかった。本来であれば二週間の隔離が必要な人たちが、五輪関係者ということで来日してすぐに街を歩いているのだから当然だろう。中には陽性発覚が相次ぐ選手村での滞在を送り、ホテルへ移ったチームもあった。

 そんな東京オリンピックは、「呪われた五輪」とも言われた。

 なんといっても安倍首相(当時)の招致演説・「アンダーコントロール」発言からして大嘘だ。

 その後も誘致に二億円の賄賂という疑惑が浮上し、コンパクト五輪と言いながらも経費はどんどん膨らみ続ける。一七年には新国立競技場の工事で現場監督をしていた二三歳の男性が「身も心も限界な私にはこのような結果しか思い浮かびませんでした」というメモを残して過労自殺した。競技場のデザインが変更となったことで着工が一年遅れたため、現場は過重労働に喘いでいた。

 一九年にはエンブレムの盗作疑惑も持ち上がり、またトライアスロンなどの会場となるお台場の海からは、基準値を超える大腸菌が検出された。新国立競技場建設のため、明治公園からは野宿者が立ち退きを迫られ、霞ヶ丘アパートからも住民が強制立ち退きとなった。

 それだけではない。

 二一年二月には、当時組織委員長だった森喜朗元首相が女性蔑視発言の果てに辞任。三月には、開閉式の演出総合統括が女性タレントの容姿を侮辱したことが報道されて辞任。それ以前にも開閉式のチーム解散などが続き、二〇年三月二四日、「復興五輪」の象徴として聖火リレーが福島のJビレッジを出発するわずか二日前、東京オリンピックは一年の延期が発表された。

 本書は、未知のウイルスによって止まったコロナ禍の日本列島をくまなく巡った記録である。

 閑古鳥の鳴く沖縄・国際通り。

「自粛しろ、だけど補償はしない」という国の生殺しのような方針に怒りの声を上げる宿泊・飲食・観光業。

「今が一番の危機」と嘆く創業七〇年の老舗菓子店。

コロナ重点医療機関がまざまざと感じた「命の優先順位づけ」の現実。

障害者大量虐殺の現場である相模原・やまゆり園で行われようとしていた聖火の採火。それに反対の声を上げた遺族たち。

そうしてあらゆるエンターテイメントが打撃を受ける中、ライヴができず、歌舞伎町のホストに転職したアーティスト。

 中でも印象深いのは、「復興五輪」と謳われながらもその「復興」から取り残されたとしか思えない人々だ。度重なる台風被害にコロナ禍というダブルパンチの千葉・南房総、やはり台風の爪痕が生々しい長野・千曲川。中でも忘れられないのが、東日本大震災から10年以上が経つ福島だ。

 聖火リレーに合わせて常磐線が開通し、避難指示区域が解除された双葉駅周辺には、震災直後の光景がそのまま残り、あちこちにホットスポットが点在していた。聖火リレーでテレビに映る場所だけがピカピカに整備されているものの、その前には崩れ落ちたままの建物が残る。そんな光景に頭に浮かんだのは「欺瞞の五輪」という言葉だ。

いまだ帰還困難区域である浪江町・津島にも入った。全身を防護服に包み、線量計を持って立ち入ったそこは自然あふれる美しい場所で、しかし、人が住むことは今も許されていない。放射線量が高く、思い出の品を持ち出すこともできないまま、家は廃墟に変わりつつある。

「オリンピックどころじゃない」

 どれほど多くの人から聞いただろう。

 

 さて、本書には、二一年に開催された五輪が「二度目の東京オリンピック」だった人たちも登場する。一九六四年、初めての東京オリンピックの時に子どもだったり社会人だったりした人たちだ。

 戦争の焼け野原から立ち上がり、オリンピックをできるまでに成長した日本。子ども時代に一度目の東京五輪を迎えた人たちは、胸が張り裂けそうな当時の高揚感を語ってくれた。

 しかし、二度目の五輪を迎えるこの国に、そのような高揚感はほとんどなかったと言っていい。それどころか、二度目のオリンピックはこの国のあらゆる矛盾を露呈させた。

 コロナ患者を、医療従事者を、そしてコロナによって困窮した人を犠牲にし、五輪に疑問を抱く人を置き去りにして強行されたオリンピック。

そのハリボテ感そのものが、この国の政治をそっくりそのまま体現しているようでもあった。

 さて、ここから、二年間に渡って三一回続いた日本各地への旅が始まる。

 ぜひ、一緒に体験してほしい。

 

 

以上、まえがきでした。続きはぜひ、本書で。

 

 

『祝祭の陰で 2020一2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』