『学校、行かなきゃいけないの? これからの不登校ガイド』のまえがきを全文公開 | 雨宮処凛オフィシャルブログ Powered by Ameba

『学校、行かなきゃいけないの? これからの不登校ガイド』のまえがきを全文公開

『学校、行かなきゃいけないの? これからの不登校ガイド』の「はじめに」を全文公開します。

1月26日に出版されました。

 

 

はじめに

 

「いじめられてる頃、夏休みが終わるのが怖くて仕方なかった。

 月曜日も怖かった。

『逃げるな』『強くなれ』なんて言葉は大嘘だ。

 今、私はあの頃の自分に『すぐに逃げろ!』と言いたい。

 あなたを大切にしてくれない場所にいてはいけない」

 

 この言葉は2015年8月20日、不登校に関する記事を専門とする「不登校新聞」のサイトに寄せたメッセージだ。夏休みが明ける9月1日は子どもの自殺が増える日であることから、「学校に行きたくないあなたへ」のメッセージを、と依頼を受けて書いたのだ。

「あなたを大切にしてくれない場所にいてはいけない」

 これは人が生きる上で、一番くらいに大切なことだと思う。

 しかし、学校で教えられた多くは、それとは真逆の価値観だった。

 

暴力教師とヤンキー、そして受験戦争

 

「人生で一番つらかったときは?」

 そう聞かれたら、迷うことなく「中学時代」と答える。

 いじめに遭ったこともつらかったけれど、それがなかったとしても中学時代は絶対に、何があっても、たとえ5億円積まれようとも戻りたくない過去だ。

 何が、と問われれば無数にあるが、私の人生においてもっとも「囚人度」が高かった数年であることは間違いない。

 教室に大きく、「無言、敏速(びんそく)、整然」と書かれているのがつらかった。

 髪の長さ、靴下の色、靴の色やスカートの長さなど細かすぎる校則が嫌だった。

 教室での一挙手一投足がみんなに「監視」され、「唾(つば)を飲み込む」とかの生理現象でさえ細心の注意を払わないと悪目立ちしてしまう空気が息苦しすぎた。

 運動音痴(おんち)でスポーツなんて興味ないのに、「部活に入らないと内申書に響く」と言われて嫌々入ったバレー部のすべてが拷問(ごうもん)だった。

 毎日ガラスにヒビが入りそうな甲高い怒声で暴言を吐く部活顧問が恐ろしすぎた。機嫌が悪いと暴言は暴力になり、しょっちょう殴られたことも不条理すぎた。

 このように、中学時代の思い出の多くは暴力に彩られている。

 担任教師も「忘れ物をした」などの理由ですぐに暴力を振るった。

 新学期、赴任してきたばかりの新人教師は、「授業中に笑った」というだけの理由で男子生徒の髪を鷲掴(わしづか)みにし、教室中を引きずり回した。数日後、その教師は「最初に誰か血祭りにあげておくと大人しくなるから」と説明し、得意げに笑った。全校集会があれば、「髪が茶色い」と判断された生徒たちが、やはり教師に髪を鷲摑みにされ、体育館から引きずり出された。1980年代後半。生徒への暴力など、問題にすらならない時代だった。

 その上、当時はヤンキー全盛期。

 学校には、「中学生に見えない」どころか、反社会勢力の幹部にしか見えないような見た目(サングラスにパンチパーマ、リーゼントなど)の上級生・同級生たちが廊下や踊り場にたまり、非ヤンキー生徒たちへの威嚇(いかく)行動に励んでいた。女子ヤンキーは全員が工藤静香(当時のアイドル。ヤンキーに人気だった。現在、俳優の木村拓哉の妻)の髪型を真似、いつも不機嫌な様子で私のような「地味目」生徒を見ては舌打ちしたりした。

 猛獣(もうじゅう)がウロウロする檻(おり)の中にブチ込まれているような、生きた心地がしない日々。

 怖いのは、ヤンキーだけじゃなかった。暴力教師とヤンキーに怯えて神経をすり減らす日々の中、生徒たちは常に「生贄(いけにえ)」を求めていた。自分以外の誰かがいじめの対象になってくれれば、それが続いている間は安泰だからだ。そのターゲットにならないために、みんながみんな、薄氷を履むように息を潜めて過ごした。秒単位で変わる教室の空気を読み、自分のヒエラルキーに見合った表情やリアクションをしなければ、その日から命の保証さえないことをその場にいる全員が知っていた。だからこそ、「空気を読まない」人間には、そのことに対する罰かのように壮絶ないじめが待っていた。

「悪目立ちしないこと」「ヤンキーに目をつけられないこと」。学校にいる間中、このふたつだけでへとへとだった。なのに、一人でいると「一人でいる奴」として目立ってしまうので同性の友達も作らなければならない。それなりにいい友人関係を結べた時期もあれば、「束縛(そくばく)」してくる友人もいた。中には他のクラスメイトとちょっと話しただけで急に不機嫌になる「面倒な彼女」みたいな女子もいて、勘弁してほしかった。

 その上、勉強だってしなくちゃいけない。

 特に私は団塊(だんかい)ジュニアでやたらと人数が多い世代。よって、高校受験は熾烈(しれつ)を極めた。北海道の片田舎という僻地であったため、都会のように「滑り止めを受験する」という選択肢はなく、もし高校受験を失敗したら、そのまま自宅で浪人生活、もしくは働かなければならないのだ。よって、大人たちは私たちを過酷な「受験戦争」に駆り立てた。

 毎日毎日、何かに追い立てられているような日々だった。ほっと一息つける場所も、そんな余裕もなかった。

 学校では、毎日のように事件が起きた。

 ヤンキーが暴れたり、ヤンキー同士が喧嘩(けんか)したり、教師がいきなりキレて生徒を殴ったり、物が壊されたり誰かの持ち物が盗まれたり、隣のクラスでいじめに遭っていた女子生徒が授業中、泣き叫びながら教室を飛び出したり。そうかと思えばヤンキーカップルが廊下でいちゃつき始めたり。

 そこはもう、「野生の王国」だった。

 

「学校を休んではいけない」という呪縛

 

考えてみれば、小学校の頃から学校は決して「楽しい」場ではなかった。

 引っ込み思案で、一言でいえば相当いじめられやすい子どもだった私は、小学校に行くようになって、そこがまるで「無法地帯」のような場所だったことに驚愕した。

 大勢の子どもたちが野に放たれ、叫んだり走ったりと興奮状態にあることにまずビビった。自分も子どもなのに、予測不能な動きをする子どもたちがとにかく怖かった。しかもそれまでいた幼稚園と違い、子どもたちの多くは自分より随分身体が大きく力も強そうなのだ。入学当初は、突然走り出したり暴れ出す上級生の男子に体当たりされたこと数知れず。やはり入学当初、クラスの女子に「通せんぼ」されたことも鮮明に覚えている。気の弱さが全身から発散されているようなキャラだったので、すぐにナメられそんな目に遭ったのだろう。よくわからない絡み方をしてくる子どもたちが怖くて、とにかくみんな少し落ち着いてほしかったし、もう少し静かにしてほしかった。

 物心ついてくると、クラスにはいつも声が大きく、自分たちが世界の中心と思っているようなグループがあることに気づいた。そんなグループの生徒が私の机に腰掛けていたりすると、そのまま教室に入れずにいたりした。

 高学年になって女子同士でグループを作るようになると、いつも軽いパシリにさせられた。仲のいい振りをしながらも、いつも私だけランクがひとつ下だった。一方、なんでも言うことを聞く「家来」がほしい女子生徒に「親友契約」を結ばされ、奴隷(どれい)のような日々を送ることもあった。命令されてもパシリにされても嫌われたくなくて、いつもニヤニヤしていた。そうすればするほど私への扱いは雑になって、だけどそれも「仲がいい証拠」なんだと思おうとした。子どもの頃はアトピーがひどくて、露骨に汚いもの扱いされることもあった。小6のとき、登校すると自分の机に「死ね」と書いてあったこともあった。

 中学2年生のとき、部活でいじめを受けてからは、死ぬことばかり考えていた。

 夜寝る前、「どうか目が覚めませんように」と祈るように思い、翌朝、目が覚めるたびに絶望した。それでも部活の朝練に行き、無視や陰口の中、ひたすら感情を殺していた。それから授業を受け、また部活で陰口を言われバカにされ、家に帰ると猛勉強した。人はいじめに遭うと、大抵成績が下がる。それまで、私の成績はそれなりに上位だった。そのことによって、私は「親の望む優等生のいい子」として家での居場所を確保していた。それが「親の望むいい子」でなくなってしまったら。成績が下がるのが怖くて、私は深夜まで勉強した。すでに学校での居場所をなくしていた私にとって、家にも居場所がなくなってしまうことは死を意味していた。そうして深夜まで机に向かい、ほんの3時間ほど寝たら朝の5時。朝練に行くために起きなければならない時間だ。

 今思っても、この頃の私は病的な状態だったと思う。とにかく何も考えないよう、感じないよう、意図的に意識を濁(にご)らせていた。そうして部活を終えて帰宅する帰り道、いつ車が飛び出してくるかわからない交差点に自転車で猛スピードで突っ込むのが日課だった。無意識に、死に向かうような行動をとっていた。そんな中学時代で覚えているのは、登校しようとすると毎日のように鼻血が出たこと。玄関を開ける直前、または玄関を出て少し歩くと必ずと言っていいほど鼻血が出た。そんな経験は後にも先にもこのときだけ。結局、部活はやめた。それによっていじめは終わった。

 今、私はこの時期に不登校をしなかったことを悔いている。

 当時の私には、不登校なんて選択はなかった。「絶対に学校を休んではいけない」と本気で思っていた。どんなにつらくても、一日休んでしまったら行きづらくなり、そうなったらずるずるとそのまま学校に行けず、そうしたら高校も大学も行けずおそらく就職も結婚もできず、「普通の人生」というレールからはみ出して取り返しがつかなくなってしまうのではないか――。

 当時の私にとって、「一日休む」ということは、人生そのものを台無しにすることに等しかった。クラスには一人、たまにしか来ない男子生徒がいた。だけど彼はヤンキーに分類される生徒で、生徒も教師も彼に対しては「人生からドロップアウトしてしまった人」という目で見ていた。

 そうして、無理に無理を重ねて学校に行き続けた。そのことによって、しなくてよかった「嫌な思い」をしたことを、私は今も悔いている。されなくてよかったいじめ。聞かなくてよかった言葉。一生の傷となる体験。以来、人間不信と対人恐怖は刷り込まれ、それは今も私の中にある。

 

いじめから30年経ってもある「後遺症」

 

さて、高校生になっていじめっ子たちと違う学校になると、やっと極度の緊張を強いられる日々から解放されたという安堵(あんど)感で様々な「症状」が出るようになった。

 それまでフリーズさせていた感情が少しずつ「解凍」されたことによって、怒りや屈辱という感情が怒涛の勢いで湧き起こり、そのコントロールが一切できなくなってしまったのだ。なぜ、自分があんな目に合わなければならなかったのかと毎日のように情けなさと恥辱感に身悶(みもだ)えし、その気持ちを抑えるためにリストカットが始まった。同時に、当時流行りだしたヴィジュアル系バンドに過剰にハマり、ライヴに行っては追っかけを繰り返し、そのまま何日か戻らないという「プチ家出」をするようになった。

 学校に、友達はいなかった。というか、作らなかった。中学で受けたいじめで一番つらかったことは、友達が私をいじめる側に寝返ったことだった。それまで、リーダー格の女子のいじめの対象にならないよう、「仲良し三人組」でお互いを守りあっていたのだ。しかし、私がターゲットにされた途端、二人は寝返った。親友だと思っていたのに。当然といえば当然だろう。しかし、そのことは私の深い傷になっていた。

 もう二度と、学校で友達なんか作らない。そう決めた私が友人を作ったのは学校外。私と同じくヴィジュアル系バンドが好きで、ライヴハウスに通う女の子たちだった。ライヴハウスにいる子たちの中には、私と似たような子が多かった。学校や家に居場所がなくて、どこか深く傷ついている子がたくさんいた。そんな子たちとライヴに行ってはそのまま野宿し、家に帰らない日が続いた。私の住んでいた町にはライヴハウスなんてないから、片道1時間半かけてバスで札幌のライヴハウスに通った。他の子たちも、田舎からわざわざ札幌に来ている子が多かった。中には札幌に住んでいる子もいて、ときにはそんな子の家にみんなで泊まったりした。

 中学時代、「優等生」で表面的にはなんの問題もないように見えた私の「激変」を、親は当然、激怒した。特に母親は「中学のときのようないい子に戻れ」と顔を合わせるたびに迫った。だけどそれは、私にとって「死ね」と同義だった。なぜなら親が「戻れ」と言う時代の私は毎日死ぬことばかり考えていて、実際に死に向かう行動を取っていたからだ。

 いじめのことは親には隠し通していたくせに、「なぜ気づいてくれなかったのか」と逆恨みするようにもなっていた。親と私は顔を合わせるたびに「ライヴに行くな」「行く」「勉強しろ」「嫌だ」と不毛な喧嘩を繰り返すようになった。当然、居心地は最悪になり、私は家という居場所を失った。だからこそ、逃げるようにライヴハウスに通った。

一度など、ライヴに行ったまま帰らず、友人たちとマイナス13度の札幌で野宿したこともある。もはや家出というより遭難の域に達していたが、それでも、家にいるよりよっぽどマシだった。

 こんなふうだったけれど、高校はなんとか卒業した。プチ家出をしたときだけじゃなく、親との喧嘩で消耗しすぎて学校に行く気力をなくした日も多々あったけれど、日数が足りない分は補習を受けて卒業した。

 結局、18歳で上京、家を出たことによって親との関係は良くなった。

 しかし、高校生で始まったリストカットは、20代なかばまで続いた。そうして25歳で物書きデビューした私は、「生きづらさ」をテーマに執筆活動を続け、この十数年は格差や貧困という問題もテーマに加わった。

 デビューして20年の今、私は45歳。ということは、いじめから約30年。

 だけど、今も私の中には「後遺症」のようなものがある。

 今も人が怖いし、人間不信は消えていない。いじめっ子に似たタイプの声がデカい人などは大の苦手だし、同世代の女性全般にも苦手意識が強くある。また、実家に帰っても、決して一人で外を出歩かない。いじめっ子にもし会ったら、と思うとそれだけで目の前が真っ暗になるからだ。

 いじめっ子のみならず、地獄のような中学時代の同級生には会いたくない。会ってしまったら、あの頃の自分に引き戻されるような気がするのだ。そんなことありえないとわかっているのに、45歳の今も、自分が生まれ育った町を一人で歩くことさえできない。怖いから。

 そんな私は、おそらく地元に戻って暮らすことは決してないだろう。帰省だけでも怖いのだから。ということは、今後、親が病気や要介護状態になったとしても、「戻る」という選択肢はないのだ。ちなみに18歳で上京し、25歳で物書きとなるまで私はフリーターだったのだが、その間、親は何度も「帰ってこい」と口にした。しかし、私の中にはここまで書いたような理由から「帰る」という選択肢はなかった。地元に帰るくらいなら死ぬしかない、とどこか本気で思っていた。このように、いじめは人から故郷を奪う。そこに戻るという選択肢を奪い去る。まさか30年経っても恐怖が拭(ぬぐ)えないなんて、思ってもいなかった。

 

学校に行かなくても、選択肢が減らない社会って?

 

さて、たまに人は聞く。

「10代に戻りたい?」と。

 断言するが、私は絶対に戻りたくない。

 汗と涙と鼻水と、その他いろんな体液が「つゆだく」の季節。自分が何を求めているのかもわからず、友人関係が異様なほどに大切で、その友人と誤差程度のことでマウンティングし合い、空気を読むことばかりを強いられ、それだけでなく「将来」なんてものを人質にされながら重大な決断を次々と迫られ、親も教師もうるさいし金はないし恋愛なんかの圧もあるし。

 その上、学校は成績だけでなく、協調性や積極性なんてものまで求め、しかし一方では「余計なことは考えずにルールに従う生徒」に甘いというダブルスタンダードが標準設定だ。

 文部科学省の2019年度の調査によると、現在、不登校の小・中学生は全国で18万人超。少子化で子どもの数は減っているというのに、その数は増え続けている。

 一方、注目したい数字がある。それは2020年9月にユニセフが公表した、先進・新興国38カ国の子どもの「幸福度」を調査した報告書。

 それによると、日本の子どもは「身体的健康」では1位だったにも関わらず、生活満足度の低さ、自殺率の高さから「精神的な幸福度」が37位と最低レベルだったという。その背景には、学校のいじめなどがあると指摘されている。

 さて、本書では、学校から遠ざかった人々、学校のあり方に疑問を持ってそれぞれ独自の取り組みを始めた人々に話を聞いた。

「学校、行かなきゃいけないの?」

 今、そんなふうに悩んでいる人に、この本が届いてほしい。

 学校は、行かなくてもいい時代になりつつあるし、コロナ禍によってより具体的にオンライン学習など「学校に行かない学び」への門戸は開かれた。

 また、冒頭で私は「今、私はあの頃の自分に『すぐに逃げろ!』と言いたい」と書いているが、すでに不登校には「逃げ」というイメージもなくなりつつある。

 もちろん、学校が楽しい人は行けばいい。しかし、学校に行かないことであらゆる扉が閉ざされてしまうような「学校中心」の社会は、見直されるべきだと私は思う。学校に行かなくても、選択肢が減らない社会。今、目指すべきはそっちじゃないだろうか。

 本書には、多くの選択肢と先人たちの実践が詰まっている。

 この本があなたのお役に立てたら、これほど嬉しいことはない。

 

 

 

『学校、行かなきゃいけないの? これからの不登校ガイド』