新刊『雨宮処凛の活動家健康法』 | 雨宮処凛オフィシャルブログ Powered by Ameba

新刊『雨宮処凛の活動家健康法』

六月末、新刊を出しました!!

その名も『雨宮処凛の活動家健康法 「生きづらさ」についてしぶとく考えてみた』(言視舎 1600円)。

聞き手・構成は今野哲男さん。

 

なぜ「生きづらく」なるのか?

若者はなぜキャラクターを重層化させるのか?

この社会に蔓延する「生きづらさ」に対し 独自の立ち位置で発言・行動を続ける稀代のアクティビストに

「なぜ?」を山ほど抱えるオッサン編集者が素朴なギモンを投げかけ

ゆるくて強い「戦略」を聞き出した

 

目次

第一章   なぜ「生きづらく」なるのか

第二章   雨宮処凛とはどんな人間か

第三章   雨宮処凛の実践

第四章   オウムと北朝鮮

第五章   雨宮流人生相談

 

以下、まえがきの一部を紹介させて頂きます。

 

まえがき

 

「生きづらいなら革命家になるしかない」

 作家の故・見沢知廉は、二〇代前半だった私にそう言った。

 それから十年もしないうちに、彼はマンションから飛び降りて還らぬ人となった。

「革命家になるしかない」と言われて二〇年以上経った今、私は革命家ではないけれど、「活動家」として生きている。主に貧困や格差、生きづらさをテーマとして、作家・活動家として生きている。

「どうしてそのような活動をしているんですか?」

 そんなことをよく聞かれる。そのたびに、答えに窮する。「正義感が強いんですね」「優しいんですね」なんて言われることもある。そんな時、やっと口から言葉がついて出る。「違うんです。正義感でも優しさでもなんでもなくて、私は百%、自分のためにやってるんです」と。

 子どもの頃、飢えに苦しむ貧しい人々の姿をテレビで見て、眠れなくなった。

 一八歳で上京した東京では、新宿駅に溢れるホームレスに言葉を失った。

 平成は「戦争がない時代だった」と言われる。しかし、世界を見渡せば多くの命が戦争で奪われた。9・11テロを受けてアフガンが空爆され、イラク戦争が始まり、それによってイスラム国が台頭し泥沼の状況となり、そして今も、多くの国で内戦が続いている。犠牲になるのは、いつも子どもや貧しい人など、弱い立場にいる人々だ。

 世界はいつも悲劇に満ちていて、そんな悲劇に何もできない自分に絶望を感じていた。自分が何をしようとも何をどう思おうとも、一ミリも世界を変えられないという無力さにも、勝手に絶望していた。それだけではない。学校で、社会に出てから、「人を蹴落とすこと」「競争に勝ち抜くこと」ばかり求められ、出会う人全員が敵かライバルにしか思えないこの社会で生きることにもほとほと疲れていた。だけど、いつからかいろんなことに対して「見て見ぬふり」をすることがうまくなって、「自己責任じゃない?」と自分と切り離してしまえば「楽になる」ことも覚えた。でも、楽になるのはほんの一瞬。

 そんな時に出会ったのが、ホームレスなど生活に困窮している人々を支援している人たちだ。

 彼らは当たり前に「困っている人」を助け、生活再建を手伝っていた。リーマンショックが起きて派遣切りの嵐が吹き荒れれば自分たちの年末年始の休みを返上して「年越し派遣村」を開催した。全国各地で毎週のように炊き出しをする人がいて、生活相談、健康相談に乗る弁護士や医師などの「プロ」がいた。それを支える大勢のボランティアの人たちがいた。

 冬の夜、所持金もなくお腹をすかせて途方に暮れている人が、その日にうちにあたたかい個室のシェルターに入ってほっと一息つく。そんな姿を見て、嬉し涙を流したことは一度や二度ではない。

 格差社会は、多くの人を傷つける。格差の「下」にいる人を傷つけるだけではない。「見て見ぬふり」をしなればならない人も傷ついている。「自己責任」と切り捨てる人も傷ついている。そして「お前だっていつこうなるかわからないんだからな」というメッセージを多くの人が受けとり、恐怖が植え付けられる。

 だけど、「困っている人」を当たり前に助ける人たちを見て、私は心から救われた。それまで、どうせ人間なんてものは自分のことしか考えていないのだと思っていた。だけど世の中には、困っている人に手を差し伸べる人たちがいるのだ。しかも、意外とたくさん。世の中って、捨てたもんじゃないのかもしれない。そう思った時、生きづらさが少し、緩和された。だから自分も、そんな活動に参加してみた。そうしたらまた楽になった。「こんなひどい社会に対して何もできない・しない自分」から、「少しはこの社会をマシにしようと動く自分」に変われたことで、息がしやすくなったのだ。

 だから、「誰かのため」じゃない。自分のため。そして自分が困った時に、誰かに助けてほしいという思いもある。少なくとも、私が誰かに手を差し伸べれば、この世界は「誰もが誰もを見捨てる世界」ではなくなる。

 一方で、自分自身、どこか活動に「依存している」という思いもある。しかし、それは不条理な世界で病まないようにするためのひとつの適応のような気もする。私にとって活動とは、生きるために必要な依存であり、それが二次被害的に誰かの役に立てば、それでOKというものなのだ。

 しかも「活動」は心だけでなく、身体にもいい。やたらとデモに行くので運動不足にならないし、ここ数年、年末年始は越年の炊き出しに通っているので「正月太り」とは無縁。なんと「活動」はタダで美容や健康にも効果ありなのだ。

(続きは本書で)

 

ということで、ぜひご一読頂けると嬉しいです。

 

『雨宮処凛の活動家健康法 「生きづらさ」についてしぶとく考えてみた』