SB111号艇の徳之島輸送 | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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  4月14日午前3時30分、1隻の船が徳之島の山港に入港した。陸軍のSB111号艇である。SB艇は米軍のLST(戦車揚陸艦)の日本版であり、海軍の二等輸送艦と同型艦である。陸軍では機動艇とも呼び、船舶特別工兵隊(通称、暁部隊)がその運航にあたった。SB111号艇に乗船していたのは、機動輸送第第25中隊(隊長 小林多四郎中尉)だった。(註1)同艇は爆弾が不足している徳之島に、250キロ爆弾70発を輸送した。(註2)爆弾の数は80発だったとする乗組員の回想もある。(註3)また爆弾の他に燃料も運んできたとの証言もある。(註4)

 乗組員の増田謙一さんによると、小倉造兵廠で爆弾を搭載した同艇は、玄界灘・五島列島を廻って徳之島を目指した。潜水艦が出没するのでノの字行動をとって進み、夜半に島の北部に接岸した。暗闇の中全員で荷下ろしして作業は短時間で終了した。その後当直以外は甲板に出て鉄帽を被り救命胴衣を着けて潜水艦を警戒しつつ、東シナ海を北上した。明け方哨戒機が飛来したが攻撃はなかった。無事に任務を果たした同艇は門司の船舶司令部前の埠頭に接岸し、司令官の歓迎を受けて、その時の記念写真が残っているという。(註5)

 現在は見ることができないが、ヤフーのブログに「謙工房の昔話」があった。ここに2009年に投稿された「機動輸送補充隊の思い出」に、同艇の徳之島輸送が詳しく書かれている。ブログの管理者は外泊許可の際に掛川市に帰省している。先述の増田さんも掛川市在住であり、名前とブログ名で「謙」の漢字が共通している。回想の内容も共通している他、前者の「当直以外は甲板に出て鉄帽を目深く被って救命胴衣をつけ敵潜の警戒を強めて」(註6)、ブログの「甲板に居る監視員は鉄帽を深くかぶって救命胴衣を着けて」(註7)等、似た文章表現が見られる。私はこのブログは増田さんのものではないかと考えている。註5の回想執筆時に増田さんは83歳とあるので、ブログ執筆時は84歳ということになる。

  小倉造兵廠で80発爆弾を搭載したのは、当時の造兵廠には爆弾が80発しかなかったからだという。艇は徳之島に夕方入港と決めて、西方の沖の鳥島(私註、徳之島西方の鳥島のこと。)を目標に航行し、発見と同時に進路を左へとって徳之島に向かった。2日目の夕方徳之島が見えてきた。島に着くと当直員以外全員が戦車庫に集合し、横70センチ・縦3メートル位で板に囲まれ信管を外された爆弾を、1個に5、6人がかりで転がして岸壁まで運び上げた。

 徳之島にはスパイがいて、SB111号艇が入港すると飛行場中腹の山で信号のような灯火の点滅が見られた。それに対して同艇は25ミリ機関砲を撃ち込んだ。揚陸した爆弾は自動車で飛行場に運搬されていった。揚陸後艇は対潜・対空警戒を厳重にして最大船速で徳之島を後にした。途中で爆撃機か哨戒機に遭遇したが攻撃を受けることはなく、無事に唐津湾入口の呼子に到着した。その後同艇は門司に移動し、司令官から成功を祝う祝辞を受け、司令官を囲んで記念写真を撮影した。その後は広場で甘い汁粉をごちそうになった。(註8)

 ブログによると、徳之島輸送はSB111号艇以外に、SB108号艇も実施したが、「途中で潜水艦の魚雷攻撃を受けて回避中に側面にひびが入って引き返した」という。SB108号艇は機動輸送第第22中隊所属で、1945年3月5日に台湾の基隆を出港した。7日には中国浙江省の海上で対潜戦闘を実施している。その後4月24日から7月18日までは、修理・改装工事及び訓練を行っている。(註9)このことからSB108号艇の徳之島輸送の可能性は低いと思われる。

 いずれにせよSB111号艇の徳之島輸送は米軍の制空権下の作戦であり、その成功は奇跡的なものだった。門司到着後の同艇への盛大な歓迎は、この作戦を司令部が決死的なものと考えていた証拠である。だが爆弾を輸送した徳之島飛行場は4月中旬には中継基地としての役目を終えたので、爆弾はあまり使用されることはなく、徳之島への爆弾輸送も二度と行われることはなかった。

 

(註1)防衛研究所図書館所蔵『陸軍船舶部隊略歴(その二)』 299頁

(註2)防衛庁防衛研修所戦史部『沖縄・台湾硫黄島方面 陸軍航空作戦』(朝雲新聞社 1
970) 485頁

(註3)『戦中・戦後の体験記』(掛川市老人クラブ連合会 2008) 31頁

(註4)元SB113号艇長の丹後正氏の証言

(註5)前掲註4 31頁

(註6)前掲註4 31頁

(註7)ヤフーブログ「謙工房の昔話」

(註8)前掲註7

(註9)前掲註1 294頁