徳富特派員は空襲下の奄美大島についても書いている。読売報知四月一八日の記事である。(四月一六日発)
その頃奄美諸島は「三月廿五日来この島はは一刻といへども空襲警報が解れてゐない」(註1)という状況であった。実際に米軍が沖縄本島への上陸作戦準備のため南西諸島全域に空襲を開始したのは一九四五年三月二三日であるが、まさに記事のとおり連日連夜米軍機の空襲に曝されていた。
全島民は手製の戦闘服で身を固め、切っ先鋭い竹槍を手に「敵来たらば一突で醜敵の二人は刺し殺すぞ」(註2)と意気盛んであった。また島民の一部は監視哨から海上の敵艦の監視にあたっていたという。(註3)
日本軍は兵力不足を補うため住民の中から防衛隊を編成した。防衛隊は陣地構築の他に海岸監視も任務としていた。沖縄を脱出する日本兵が最初に目指す与論島では、沿岸監視と脱出日本兵の取締りは防衛隊の任務とされた。隊員達は国民服に竹槍という出で立ちであった。(註4)まさに記事の内容そのままである。
請島の請阿室では、同所と池地から派遣された防衛隊員が潜水艦監視の任務に就いていた。(註5)同様の監視哨は各地に設けられたようで、徳之島の亀津(隊員は警察署長からの任命。防衛隊員ではなかった。註6)や、笠利村の平、万屋(万屋は女子青年団が担当。)註7)にその存在が知られる。かなり一般的な戦争協力の形態だったと思われる。 当時の新聞記事の目的は国民の戦意昴揚であり、前掲の四月一二日の記事では航空隊の活躍を描き、奄美大島の「難攻不落を誇る沈まざる航空母艦」ぶりを紹介した。同じ目的で四月一八日には、日本軍機に沈められた米艦から島に漂着したと思われる一隻の救命ボ-トのことを取り上げている。ボ-トを見た島民は米英撃滅の誓いを新たにしたという。 このボ-トと同一かは不明だが、島尾敏雄氏は作品中で、戦時中に浜辺に打ち上げられた小船があったと記している。その船には横文字の書かれた用途不明のベルトが打ちつけられていたという。(註8)何語かは書かれていないが、当時の状況から考えて英語と判断して間違いないだろう。
(註1)四月一八日の読売報知
(註2)前掲註1
(註3)前掲註1
(註4)森杉多『空白の戦記-幻の沖縄奪還 クリ舟挺進隊-』(昭和出版 一九七五) 一六五~一六八頁
(註5)『わが町の戦中戦後を語る(思い出の 体験記録集)』(瀬戸内町中央公民館 一九八九) 五頁
(註6)仁愛之助「太平洋戦争中の亀津監視 哨について」(『徳之島郷土研究会報』第一一号 所収 一九八五)
(註7)東健一郎「笠利村の戦時について」 (『奄美郷土研究会報』第二二号 所収 一九八二) 四一、四二頁
(註8)島尾敏雄「星くずの下で」(『島尾敏 雄全集 第5巻』昌文社 一九八○) 所収 二七五頁