米軍資料に見る沖永良部島空襲(2) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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 3月1日は、3度空母艦載機が沖永良部島に来襲した。最初に来襲したのは、空母「サンジャシント」を午前8時45分に発進した、第45戦闘飛行隊のF6F12機(12機のうち11機がロケット弾6発を装備)だった。任務は沖永良部島と徳之島の戦闘機掃蕩だった。
 攻撃隊は徳之島と加計呂間島を攻撃する前に、初めに沖永良部島に来襲した。1編隊は機体故障の機が出たため、途中で空母に帰還した。1編隊は島のほぼ中央の入り江の西海岸に、浜に乗り上げた小型帆船1隻を機銃掃射した。その船は火災が起きたのが見えた。もう1編隊は船舶2隻が進行中で、もう1隻は島の東岸の小さな港にいるのを発見した。この編隊はこれらの小型帆船をロケット弾と機銃で攻撃し、火災が発生し煙が出た。乗員の生存の印はなく、攻撃は止められた。
 この攻撃隊には空母「ハンコック」を午前7時20分に発進した、戦闘機24機(500ポンド爆弾とロケット弾を装備)と撮影機6機も加わっていた。攻撃隊は古仁屋水上機基地と久慈湾の船舶を攻撃した他に、「ハンコック」隊は沖永良部島で機帆船1隻を攻撃して、1隻の撃沈を報告している。(註1)
この時攻撃を受けたのが、大島防備隊所属の護衛用漁船(機帆船)「第六道栄丸」と「第七一大漁丸」、第22輸送隊所属の「第三八重川丸」の3隻である。「第六道栄丸」と「第七一大漁丸」は2月27日に軍需品・民需品及び人員輸送のため加計呂間島の瀬相を出発し、前者は知名港に、後者は和泊港に到着していた。(註2)「第三八重川丸」は27日に古仁屋を出港し、同日に和泊港に到着した。翌28日には積み荷の陸揚げを終了して「第六道栄丸」の帰港を待っていたところだった。(註3)
 この空襲で「第七一大漁丸」は機械室に被弾し燃料に引火した。その後浸水して大きく傾斜し総員退去し、重傷者3名を出した。(註4)「第六道栄丸」は爆弾が船首に命中して機銃弾が誘爆した。総員退去後に搭載爆雷が爆発して船体は大破し炎上沈没した。軽傷者1名を出した。(註5)
「第三八重川丸」は、約40分間に亘りグラマンの銃爆撃を受け、火災が発生し至近弾多数を受けた。至近弾の破孔からの浸水が拡大したため、乗員は退船せざるを得なかった。米軍機の機銃掃射で兵士と船員それぞれ2名が戦死した。(註6)日本側は合せて撃墜5機と撃破5機の戦果を報告しているが、米軍機に被害はなかった。
 「第七一大漁丸」には九州に疎開する途中の前田池義医師、内地の部隊へ入隊する若者、土持六男先生に引率された受験のため鹿児島へ向かう学生など二十数名が乗船していた。(註7)乗客は28日のうちに乗船し船で一夜を明かした。
 3月1日午前7時30分過ぎ、複数の飛行機が低空で船に接近してきた。乗客は日本機だと思いバンザイ、バンザイと両手を振って大声で叫んだ。輸送船の護衛のために来てくれたと思ったのである。(註8)沖永良部島はこれまであまり米軍機の空襲を受けていなかったため、誰も米軍機とは思わなかったのである。
 次の瞬間、米軍機は船に銃爆撃を加えてきた。船内は騒然となり乗客は船倉に逃れ、「首をすくめ、体を小さく丸め、手で耳や頭を押さえ何ら抵抗できない姿勢で、恐怖に脅えながら、時を待つしか」(註9)なかった。船は搭載の機関銃で応戦し、一人が負傷するとまた代わりの者が応戦したが、いつしか砲声は聞こえなくなった。(註10)
 鹿児島県立第二中学校へ受験に行く途中の逆瀬川助三さんは、自分達の荷物を積んだ船(私註、「第三八重川丸」)に爆弾が命中して、船の上部が吹き飛ぶのを目撃した。急に爆音が止んで気付くと、「第七一大漁丸」は機銃掃射で、海面から上は全て火が回り始めていた。(註11)
 船尾の爆雷と燃料に引火すると爆発する恐れがあるため、米軍機のいないうちに船から離れて島に向かい泳ぐように指示が出され、乗客は次々に海に飛び込んだ。(註12)軍隊に入隊のため内地に向かう途中の伊集院好武さんは、飛び込む時に船員から「服は捨てろ」と言われて、褌一つで海に飛び込んだ。(註13)着衣のままだと泳ぎにくいための指示だろう。
 鹿児島の学校に戻る途中の大和一生さんは、平山靖さん、伊集院好武さん等と一緒に、燃える船上から板切れや柱、船倉の蓋等を海に投げ入れて、これに掴まるように叫んだ。(註14)米軍機は漂流中の生存者にも銃撃を加えたほか、砂浜にたどり着いてからも執拗に銃撃を加えた。(註15)
 この攻撃で「輸送船乗客の前田池義医師、梶原冬さん、受験のため上鹿予定の内城小6年生の後蘭の平忠彦君、和泊小高二喜美留の伊地知ユキさんほか数名死亡」(註16)し、「第七一大漁丸」に乗船していた住民7名が死亡した。(註17)
 この空襲については「午前七時四十五分、米艦載機十四機来襲、島内各所襲撃約一時間にわたる。小米部落炎上」「小米港において輸送船が爆破され、油が飛んできて小米の大半が焼失した。その時東忠一医師宅、日吉西則氏宅も焼けた」(註18)という。また「船の火の粉が小米の町に流れ町は火の海、燃えさかる火の中を姉は、タンスや食糧品を壕の中に投げ込んでいた」(註19)状況から見て、「第六道栄丸」の火災が延焼したと考えられる。
2番目に来襲したのは、空母「サンジャシント」を午後3時13分に発進した、第45戦闘飛行隊のF6F9機(ロケット弾6発を装備)だった。空母「ハンコック」の第80戦闘飛行隊のF6F14機が同行し、任務は沖永良部島と徳之島の戦闘機掃討だった。
攻撃隊は沖永良部島で、島の南西海岸のコンクリート桟橋と倉庫を攻撃した。桟橋にはロケット弾2発命中させて損害を与え、いくつかの小屋がある地元住民の村を機銃掃射した。残りの機は臨機目標を攻撃し、島の北東側のバラック1棟をロケット弾と機銃で攻撃し、火災を起こした。
 「ハンコック」隊は、午後3時に戦闘機8機(ロケット弾を装備)と撮影機5機が発進した。徳之島分と合わせてロケット弾42発を発射し、島尻・知名・未確認集落の3カ所の集落を攻撃した。(註20)
 午後の攻撃については、「午後二時再び来襲、十四機で約一時間、島尻、田皆、正名襲撃、民家多数炎上。(中略)正名の五十一戸が焼失」(註21)し、「和泊青年学校全焼し、和泊、手々知名で火災畦布北アタイで炎上するも消し止め(中略)午後艦砲射撃もあり上手々知名で二棟焼失」(註22)した。
 米軍の記録と照合すると、「サンジャシント」隊の攻撃した南西海岸、「ハンコック」隊の攻撃した集落が、のあるのが島尻・田皆・正名・知名の知名町の一帯だろう。和泊町一帯を攻撃したのは「サンジャシント」隊で、炎上させたバラック1棟とは青年学校のことで間違いない。各地の空襲で米軍は細長い学校校舎を、兵舎等と判断して攻撃している。
 正名の米軍機が来襲した時、登校中の子供は皆で手を振った。(註23)日本機だと思ったのだろう。機関銃の攻撃で、正名集落は40戸の家屋が焼失した。東南の風で火は瞬く間に燃え、住民はバケツで水をかけて家を守ろうとした。(註24)
 この日の攻撃は空襲だけであり、艦砲射撃は誤りだろう。沖永良部島の軍事目標でない集落を無差別に攻撃しており、これ以降の臨機目標への攻撃の先駆けとも呼べる空襲だった。

(註1)沖縄県立公文書館所蔵『米国軍艦ハンコック戦闘報告書 1945年2月10日~3月3日』
(註2)防衛研究所図書館所蔵『大島防備隊戦闘詳報 S20・3・1』
(註3)防衛研究所図書館所蔵『昭和19年12月以降 大東亜戦争徴庸船舶事故報告綴』 2552頁
(註4)前掲註2
(註5)前掲註2
(註6)前掲註3 2553~2555頁
(註7)殉難之碑建立記念誌編集委員会『鎮魂―太平洋戦争民間人殉難之碑建立記念誌―』(同建立実行委員長 朝戸貞造 1996) 45、54、90頁など
(註8)前掲註7 28頁
(註9)前掲註7 33頁
(註10)前掲註15 33、64頁
(註11)和泊町企画観光課編『和泊町戦争体験記』(和泊町 1984) 39~40頁
(註12)前掲註7 34、51頁
(註13)前掲註7 56頁
(註14)前掲註7 28~29、40頁
(註15)前掲註7 41~42頁
(註16)和泊町誌編集委員会編『和泊町誌(歴史編)』(和泊町教育委員会 1985) 755頁
(註17)前掲註7 110頁
(註18)町誌編纂委員会『知名町誌』(知名町役場 1982) 412~413頁
(註19)『知名小学校創立百周年記念誌』(1978) 75頁
(註20)前掲註1
(註21)前掲註18 413頁
(註22)前掲註1 755頁
(註23)『知名町奄美群島日本復帰五〇周年記念誌』(知名町奄美群島日本復帰五〇周年事業実行委員会 2005) 44頁
(註24)前掲註23 44頁