米軍資料に見る沖永良部島空襲(1) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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 太平洋戦争で、米軍の沖縄侵攻作戦の進行に伴い、奄美諸島は米軍機の激しい空襲を受けた。奄美大島・加計呂間島・喜界島・徳之島等は、日本軍の軍事施設があったため、1945年(昭和20)3月末から敗戦まで、濃淡はあるものの米軍の空襲下にあった。
 本稿で取り上げる沖永良部島にも、守備隊として陸軍1個大隊が駐留し、海軍の見張所も設けられていた。同島への空襲については、『知名町誌』や『和泊町誌・歴史編』にその概要が記されている。これは他の島にも言えることだが、米軍資料との照合がなされていないため、来襲機数や来襲した部隊等はほとんど明らかになっていない。
 そこで本稿では、国立国会図書館や沖縄公文書館に所蔵されている米軍資料を主な材料として、沖縄戦の開始を告げた10・10空襲からの、沖永良部島への米軍による空襲の状況を明らかにしたい。
 以下、特に註がない場合は、国会図書館所蔵の各空母及び海兵航空隊の各飛行隊の戦闘報告書からの引用である。なお資料上の制約から、陸軍機の来襲については、一部の記述に留まっている。これについては今後明らかにしたい。
 奄美諸島への最初の空襲は、1944年(昭和19)10月10日のいわゆる「10・10空襲」である。沖永良部島では、午前7時に空襲警報が発令された。海上の船舶が狙われ、「喜美留の「マハダグムイ」沖に停泊中の輸送船6~7隻めがけ、グラマン2機で空襲、幸い撃沈されたものはなかった」(註1)という。
この日は沖永良部島東方海面(北緯27度25分・東経128度52分)で、漁船「第五琴平丸」と「第一雄基丸」が、敵機の攻撃を受けて前者は被爆沈没し、後者は和泊で擱座した。(註2)攻撃を受けた時間は午前11時35分頃で、2隻は那覇へ兵器の輸送中だった。(註3)攻撃を受けた場所は、沖永良部西方10浬との記録もある。(註4)
 「第一雄基丸」は、沖永良部島沖合を航行中に、艦載機の攻撃を受けた。船体は機銃弾で穴だらけとなり、大破浸水して航行不能となって、サンゴ礁に乗り上げ沈没を免れた。攻撃で海軍兵1名が死亡、船長が重傷を負い、他に2名の軽傷者を出した。船体はそのまま放棄され、乗員は奄美大島の地上部隊に編入された。(註5)
2隻は航行中を攻撃されているので、喜美留沖の船舶とは別のように思われる。この日沖永良部島に来襲した米軍機では、空母「イントレピッド」の戦闘機と爆撃機が、奄美大島と徳之島を攻撃したことが判明している。(註6)所属は特定出来ていないが、米軍の空母艦載機による被害であることは間違いない。
 1945年(昭和20)1月22日、「十三時敵戦闘機三、爆撃機五機来襲。被害なし。」(註7)だった。この時来襲したのは、空母「サンジャシント」を午前10時に発進した、第6戦闘飛行隊の写真撮影機だった。任務が撮影だったため、飛行機や船舶へは攻撃は行わなかった。(註8)日本側の史料に被害が記述されていないのは、このためである。
また30日のこととして、「グラマン四機で初空襲あり、北東より進入。監視哨から大隊本部に「撃つか」と照会したら「撃つな」とのことだった」(註9)と記述されている。反撃すると陣地を暴露することになって、数十倍の反撃を受けるため、陸軍の大隊本部では反撃を止めたのだろう。30日に米艦載機の来襲はないので、これは22日の誤りの可能性が高い。
 2月18日は「午前十一時、警報なしに敵双発機来襲。輸送船を目当に爆撃。屋子母五里の地点で一隻撃沈され九名救助する。一隻は余多海岸にて船体は浅瀬に乗り上げ、人命に異常なし」(註10)だった。
この時来襲したのは、午前4時50分にレイテ島タクロバン基地を発進した、第104偵察爆撃飛行隊のPB4Y1機(機長はスタンリー・A・ウッド大尉。100ポンド爆弾10発を装備)だった。同機は北緯27度20分・東経128度40分で船舶(500トン)を爆弾4発と機銃弾300発で攻撃し、爆弾2発が命中して沈没した。
沈没したのは、「第一三須磨丸」(神戸近海機船 146トン)である。同船は海軍第22輸送隊の所属の機帆船で、船員9名と海軍の警戒隊員4名が乗り込んでいた。武装は13ミリ単装機銃1丁と爆雷2個であった。(註11)
 同船は2月18日午前10時40分頃、知名町北東200メートルを、奄美大島瀬相に向けて航行中だった。午前11時5分にB24が1機、同船に対して低空爆撃を行ってきた。攻撃は20分間に亘り続き、銃撃で船員1名が死亡し、船体各所に機銃弾多数が命中した他、機関室に爆弾が命中した。船体は炎上大破し、午前11時35分に同船は沈没した。(註12)生存者は泳いで沖永良部島にたどり着いている。(註13)もう一隻の船については、資料がないため不明である。


(註1)和泊町誌編集委員会編『和泊町誌(歴史編)』(和泊町教育委員会 1985) 754頁
(註2)防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵『大島防備隊戦闘詳報 S19・10・23』 1211・1215頁
(註3)防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵『大島防備隊戦時日誌 S19・10』 1599・1631頁
(註4)前掲註3 1632頁
(註5)濱田真人『鎮魂 漁船かく戦えり』(私家版 1998) 105~108頁
(註6)沖縄県立公文書館所蔵『米国軍艦イントレピッド戦闘報告書 1944年10月10日~10月31日』
(註7)前掲註1 754頁
(註8)沖縄県立公文書館所蔵『米国軍艦サンジャシント戦闘報告書 1945年1月3日~1月23日』
(註9)前掲註1 754頁
(註10)町誌編纂委員会『知名町誌』(知名町役場 1982) 412頁
(註11)防衛研究所図書館所蔵『昭和19年12月以降 大東亜戦争徴庸船舶事故報告綴』 2119、2120頁
(註12)前掲註11 2120、2122~2123頁
(註13)前掲註11 2123頁