20日は「朝七時頃多数の飛行機音があったが爆撃せず飛び去る。午后より三機来たりて飛行場に爆弾三発落して機銃射撃したり、焼夷弾五・六発づつ打つて去れり」(「徳之島空襲日記」66頁)という状況だった。
最初に来襲したのは、沖縄嘉手飛行場を午後12時30分に発進した、第322海兵戦闘飛行隊のF4U11機(ナパーム弾2発とロケット弾8発を装備)、第31海兵戦闘飛行隊のF4Uと第224海兵戦闘飛行隊のF4U12機(読谷飛行場を発進)だった。午後1時30分以降に目標に到達し、飛行場と対空砲陣地を4機が銃撃し、多数が命中して僅かな損害を与えた。攻撃は銃撃のみなので、「徳之島空襲日記」が記録する編隊ではないだろう。
2番目に来襲したのは、沖縄読谷飛行場を午後7時40分に発進した、第542海兵夜戦飛行隊のF6F2機(ロケット弾6発を装備)だった。目標に午後8時45分に到達し、飛行場を攻撃しロケット弾6発が命中して、僅かな損害を与えた。
3番目に来襲したのは、沖縄伊江島C滑走路を午後9時15分に発進した、第533海兵夜戦飛行隊のF6F2機(500ポンド爆弾2発とロケット弾6発を装備)だった。徳之島に午後11時30分に到達し、井之川を1機が爆撃し、爆弾2発が命中して損害はなかった。Yoesaoを1機が爆撃し、爆弾2発が命中して損害はなかった。尾母の北東を1機が攻撃し、ロケット弾6発が命中したが損害はなかった。白井から亀津へ1機が攻撃し、ロケット弾6発が命中したが、損害はなかった。
井之川・尾母・白井・亀津は全て徳之島の南東部の集落である。Yoesaoはどこのことか不明だが、おそらくこれらの集落に近い場所のことだろう。亀津では「夜になるも爆音激しく二十三時まで壕に入る」(「激戦下の徳之島」33頁)と、夜間空襲について触れている。
21日は「朝から終日爆音ありとおし」(「徳之島空襲日記」66頁)と、攻撃があったか明確でないが、終日米軍機が飛来したようだ。
最初に来襲したのは、沖縄嘉手納飛行場を午前10時38分に発進した、第232海兵攻撃爆撃隊のTBM1機(100ポンド爆弾12発とロケット弾8発を装備)だった。徳之島に午前11時45分に到達し、無線塔と施設を攻撃し、爆弾11発とロケット弾7発が命中し、目撃出来なかった。この無線塔とは、以前も攻撃された亀津の無線局のことだろう。
2番目に来襲したのは、沖縄嘉手納飛行場を午前9時15分と午前11時15分に発進した、第212海兵戦闘飛行隊のF4U15機(500ポンド爆弾1発とロケット弾4発を装備)だった。午前11時40分と午後2時に目標に到達し、飛行場を8機が爆弾8発で攻撃し、損害は不明だった。
3番目に来襲したのは、沖縄嘉手納飛行場を午前10時30分に発進した、第322海兵戦闘飛行隊のF4U2機だった。徳之島に午後1時40分に到達し、15から40の四角い木製建物からなるキャンプ地域の建物を銃撃し、多数が命中したが、損害は目撃出来なかった。そこには12人の人が目撃された。
亀津では「十三時より中型一機来襲。上空を旋回後に国民学校と沢村氏宅にロケット弾が投弾されたり」(「激戦下の徳之島」34頁)とあるが、中型機となるのでこれらの空襲とは別だろう。
23日は「今日も爆撃あり」(「徳之島空襲日記」66頁)だった。
この日来襲したのは、沖縄嘉手納飛行場を午前0時5分に発進した、第543海兵夜戦飛行隊のF6F2機(爆弾2発とロケット弾6発を装備)だった。徳之島に午前1時から午前1時35分に到達し、滑走路を攻撃し、爆弾4発とロケット弾12発が命中し、滑走路の地域に2つの大火災が起きた。
2番目に来襲したのは、第548夜間戦闘機中隊のP61 1機だった。午前1時50分に侵入任務で、徳之島を20ミリ弾360発と50口径弾500発で銃撃したが、結果は目撃し出来なかった。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/3727」)
これまで徳之島への夜間空襲は、機動部隊艦載機か沖縄基地の海兵隊機だったが、この日が陸軍の夜間戦闘機による初の徳之島空襲となった。沖縄基地の整備が進み、陸軍機が本格的に活動し始めたことの一つの表れだろう。
3番目に来襲したのは、第548夜間戦闘機中隊のP61だった。午後11時5分から30分に、飛行場を1000ポンド爆弾2発と機銃で攻撃したが、結果は目撃出来なかった。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/3727」)