米軍資料に見る徳之島空襲(1) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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   はじめに
 太平洋戦争で、米軍の沖縄侵攻作戦の進行に伴い、奄美諸島は米軍機の激しい空襲を受けた。その空襲の状況は、奄美大島・加計呂間島では、海軍の大島防備隊の戦時日誌・戦闘詳報で詳しく知ることが出来る。喜界島でも、駐留していた海軍の飛行場部隊の『南西諸島海軍航空隊戦時日誌』のよって、その状況のかなりの部分を知ることが出来る。
 これらの島々と対照的に、徳之島の空襲の様子については、日本軍守備隊の史料が断片的に残されているにすぎない。その上、沖縄本島に米軍上陸後の空襲の状況は、『徳之島郷土研究会報』に掲載された住民の日記等を除くと、ほとんど知ることが出来ない。それらの日記も、日々の来襲機数・攻撃目標の詳細は記されていない。
 そこで本稿では、国立国会図書館や沖縄公文書館に所蔵されている米軍資料を主な材料として、沖縄戦の開始を告げた10・10空襲からの、徳之島への米軍による空襲の状況を明らかにしたい。ただし、米軍の主な攻撃目標が徳之島飛行場だったため、記述の中心は飛行場への空襲となる。一般の集落への空襲等は、飛行場攻撃に付随して行われた場合に限り触れることになる。
 論考としては不十分な考察となってしまうが、米軍にとって徳之島の軍事的価値は飛行場にあり、そこへの空襲の状況を考察することは、徳之島への米軍機の空襲状況のおおよその傾向を明らかに出来ると考えている。
 以下、特に註がない場合は、国会図書館所蔵の各空母及び海兵隊航空隊の各飛行隊の戦闘報告書からの引用である。


   一、沖縄本島上陸前の空襲
 奄美諸島への最初の空襲は、1944年(昭和19)10月10日のいわゆる「10・10空襲」である。この日、奄美諸島へ来襲した米艦載機の中に、空母「イントレピッド」所属機が含まれていた。
 この日の同艦の攻撃目標は、沖縄本島と伊江島の他に、徳之島と奄美大島だった。徳之島を攻撃したのは、第7戦闘飛行隊の戦闘機隊だった。使用した兵器は機銃弾8650発と500ポンド爆弾4発で、爆弾1発を装備したと考えると、おそらく機数は1編隊4機だろう。
 戦果は徳之島飛行場で、彗星2機・隼1機・零戦1機・単発機8機を機銃掃射で破壊した。別に単発の戦闘機3機に損害を与えた。地上の全機がそれぞれ炎上又は損害を受け、その模様は撮影された。(註1)
 この日徳之島飛行場には、午前8時20分頃に第1波のグラマン(私註、機数不明。数機か?)が来襲した。午後2時には21機が来襲し、飛行場一帯を徹底的に攻撃した。日本機の炎上大破17機、掩体壕に収容中の11機のうち7機が、全焼もしくは大破したという。(註2)実際には徳之島での日本機の損害は、13機の焼失、1機の大破だった。(註3)戦果から考えて、「イントレピッド」の艦載機は、午後の空襲に参加していたと思われる。

(註1)沖縄県立公文書館所蔵『米国軍艦イントレピッド戦闘報告書 1944年10月10日~10月31日』
(註2)富田一夫『孤島燃ゆる』(徳之島戦史刊行会 1982) 69~73頁
(註3)防衛省研究所戦史研究センター所蔵『第32軍 10・10南西空襲戦闘詳報』