古仁屋基地と瑞雲水上偵察機隊(25) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

ヤフーブログから移行しました。随時更新していいきますので、よろしくお願いします。

 22日、23日には97式飛行艇が古仁屋へ飛来した。(註65)これは飛行機を失ったり不時着したりて奄美大島に滞留している陸海軍の搭乗員20名、及び喜界島基地から転進中の基地員約50名を救出するためである。(註66)そして22日に54名、23日に25名がそれぞれ救出された。(註67)
 この時救出された搭乗員の1人が、陸軍第214振武隊長當山幸一少尉だった。少尉は6月3日に知覧を出撃したが、機体の不調のため沖永良部島に不時着した。その後徳之島を経て奄美大島に至り、帰還の便を待っていたのである。(註68)
 22日は2機、23日は1機がそれぞれ飛来したが、いずれも夜間戦闘機を警戒して航空灯を消し、各機ともクルーを減らしての決死行だった。ちなみに22日飛来した機うちの1機は、4月27日にも救出作戦を行った加藤中尉が機長を務める機であった。(註70)
 これより先11日に、古仁屋は951空から大島防備隊司令の所管に移され、沖縄戦前から同基地に駐留していた951空の残留員は、大島防備隊司令の指揮下に入った。(註52)
 また15日に951空司令は、古仁屋の残留員指揮官を奥谷一三六少尉とし、残留員を下士官1名と兵8名と定めた。残留員以外の転進には潜水艦の使用を要望する無電を発信した。(註71)だが実際は水上機で転進したようだ。(註72)
 これらの動きは実質的に、古仁屋の中継基地としての使用の放棄もしくは縮小と考えられる。だが実際にはことはそう簡単ではなく、海軍は古仁屋の使用を完全には放棄していなかった。
634空は桜島の瑞雲8機に古仁屋で燃料と爆弾を補給させ、攻撃させる作戦を計画していた。そのため7月22日までに、玄界から基地員7名を古仁屋に進出させるよう指示している。(註73)実際にはこの作戦は行われなかったようだが、状況次第では古仁屋が再び中継基地として使用された可能性がある。
 3つの論考に及んでしまったが、このように沖縄戦の最初から最後まで瑞雲隊は、古仁屋基地を中継基地として敢闘した。その活動は主に夜間単機で艦船を爆撃するというもので、決して華々しくはない苦しい戦いであった。瑞雲隊の活動はほとんど知られていないが、もっと評価されてしかるべきである。
 ちなみに634空が台湾に移った頃、搭乗員が歌っていた歌がある。それは「水爆離水よ、わしゃ、戦闘機乗りよー、誰とて見送る人さえないがー、泣いてくれるは鷲鳥が三羽よー」(註74)である。瑞雲は夜間単機で出撃することが多く、見送りも基地隊員くらいであったことを象徴しており、瑞雲隊の活動を端的に表現した歌と言えよう。


(註1)防衛庁防衛研修所戦史室『沖縄方面海軍作戦』(朝雲新聞社 1968) 587頁
(註2)防衛研究所図書館所蔵『参考電報綴3/3 S20・5~20・7』 機密第161054番電
(註3)前掲註1 587頁
(註4)「恩納村民の戦時物語」編集委員会『恩納村民の戦時物語』(恩納村遺族会 20
03) 88~90頁
(註5)中村豊治『翔ぶ 大艇戦士の記録』(玉利義男 1982) 170頁
(註6)防衛研究所図書館所蔵『大島防備隊戦時日誌 S20・7』 144頁
(註7)前掲註6 145頁
(註8)瀬戸内大正会『体験文集 第1集』(瀬戸内大正会 1996) 40頁
(註9)前掲註2 機密第211552番電
(註10)植松辰美『闘魂の詩 海軍特別少年兵の50年』(佐世保第二期練習兵の会闘魂会 1993) 269頁