2.作戦失敗
担任からリーチを宣告されてから数日後、空と海は同じ時間に家を出た。電車の中で海は3時間目の英語の教科書を忘れたことに気がづいた。
「ねぇ空、今日英語ある?」
「あるよ。」
「何時間目?」
「2時間目。」
「わぁラッキー。終わったら教科書貸して。」
「忘れたのかよ。」
「うん。昨日ベッドで寝っ転がって宿題してたら、そのまま置いてきちゃった。」
「ちゃんとしろよな。」
「2時間目が終わったら持って来て。」
「何でオレが持ってくんだよ。貸してやるんだからおまえが取りに来いよ。」
「だって空の教室遠いんだもん。休み時間5分しかないから間に合わないよ。」
「オレの教室が遠いんじゃなくて、海の教室が離れなんだろ。」
「じゃあさ、真ん中で待ち合わせしよう。」
「真ん中って?」
「渡り廊下。」
「面倒くせーな。」
「お願い。かわいい妹のためと思って。今忘れ物したらリーチかかってるからまずいんだもん。」
「リーチ?」
「そう。」
「ああ、あの新体制のやつか。」
「うちのクラスのこと知ってるの?」
「友達に聞いた。それにしても、もうリーチって早くないか?」
「だから助けて、お願い空。」
「しょうがねーな。」
2時間目は担任の日本史の授業だった。チャイムと同時にピタリと授業が終わった。教室の入口では男子数人が群がり、担任を取り囲んでくだらない話をしていたが、海はその脇をスーッと通り抜けて廊下に出た。休み時間は5分しかない。空と落ち合うことになっている渡り廊下まで1分、往復すると2分だから全然余裕のはず。・・・だったが、海が到着したとき空はまだ来ていなかった。授業が長引いているのか?英語の先生はチャイムが鳴ってもキリのいいところまで授業を続ける傾向がある。海は本館2階にある空の教室まで行ってみることにした。
ところが、8組の教室には誰もいなかった。
「えー!」
海はオロオロしながら壁に掲示してある時間表に目をやった。次の時間は体育だった。
“空、約束忘れて体育館に行っちゃったのかな?”
空の座席がなかなか見つからず、机の横にかけてあるカバンを探してようやく見つけることができた。机の中とカバンの中をのぞいてみたが、英語の教科書は入っていなかった。
“英語の教科書、持って行ったってこと?”
海は急いで階段を駆け下り、もう一度渡り廊下まで戻ってみたが、そこにも空はいなかった。
3時間目が始まるまであと1分。体育館に行こうとも思ったが、そんなことをしていたら絶対に間に合わない。空を探すのを諦め、
“もしかしたら、9組まで届けに来てくれたのかもしれない”
空を信じて教室に戻ろうとしたところで始業のチャイムが鳴り響いた。
「やばっ!」
まだ英語の先生が来ていない可能性にかけて廊下を猛ダッシュし、ハァハァ息を切らして9組の教室にたどり着いた。祈るような気持ちで中をのぞくと、すでに英語の先生は教壇に立って出席をチェックしていた。海が気まずそうにうしろのドアを開けて中に入ると、
「蓮ケ谷さん、遅刻ですね。」
と指摘された。
海の机の上には、まるで休み時間中に次の授業の準備をしておいたかのように英語の教科書が置かれていた。
あとで空に聞いたところ、2時間目の英語が時間通りに終わり、体育の準備をして渡り廊下まで行ったが海がまだ来ていなかったので教室まで届けてくれたらしい。空も次の体育の授業に遅れるわけにはいかなかったし、途中で海に会うだろうと思っていたようだが、どこでどう行き違ってしまったのか。いくつか考えられるのは、空は教室を出て東側の階段を下りたが海は西側の階段を上って行った。もしくは空が体育の前にトイレに行き、そのときすれ違ってしまったのか。どうやら今回、双子のテレパシーは発揮されなかったようだ。
空を恨むのは筋違いだと分かってはいたが、どうしても怒りの矛先は約束通りに渡り廊下で待っていてくれなかった空に向けられた。
その日の昼休み、クラス委員2人が職員室に呼ばれた。3時間目の英語に遅刻したことがもう担任の耳に入ってしまったのかとドキドキしていたが、クラス委員2人で呼ばれているのだからまた何か用事を頼まれるだけだと自分に言い聞かせ、伊吹のあとについて職員室に向かった。例のコピーをすっぽかしてしまったときから1か月経った今でも、海は伊吹に引け目を感じていて、彼の前では海らしくないしおらしい態度をとってしまう。
歩いていると伊吹は突然うしろを振り返り、
「おまえ、もうアウトなんだろ?」
探るというよりは確信を持った感じで聞いてきた。
「えっ?何が?」
海はとぼけたふりをしたが、伊吹が言っている意味は伝わっていた。担任に呼び出された時点で頭の中は『おしおき』でいっぱいになり、それでも必死に動揺を抑え込んでいたのに、伊吹が唐突にそんなことを言ってきたので再び心拍数が急上昇するのを感じた。
「この前5人で呼び出されたときリーチだって他のヤツが言ってたから、今日の英語の遅刻でおまえもうアウトだよな?教科書忘れたのと廊下全力疾走したのを足したら一気に✕7、もしオレがオリオンにこの前のコピーのことチクったら、次のペナルティーもすぐって感じだよな。」
「何それ?脅してるの?オリオンに言いつけるんならさっさと言えばいいじゃん。そうやってチクチクといじってくるの卑怯だよ!」
伊吹の言っていることにカチンときた海は、今まで我慢してきたものがあふれ出し、つい本音をぶつけてしまった。クラスでは男女問わずみんなから人気がある彼だったが、海から見たらとっつきにくく敵だか味方だか分からない存在だった。
職員室に行くと担任は自分の席に座っていて、2人を手招きして迎え入れた。
「2人ともクラス委員の仕事よくやってくれてるから、これご褒美。」
と言ってお土産でもらったお菓子を1つずつ差し出した。プリントを配ったり、連絡事項を伝えたりしているだけで大した仕事はしていないのにと思ったが、
「ありがとうございます。」
とお礼を言って受け取った。
「伊吹、これみんなに配っといて。」
プリントを渡され2人が帰ろうとすると、
「あっ、そうそう海はちょっと残って。」
“うわぁーやっぱり・・・”
海は首をうなだれた。伊吹はきっと“ほらみろ”とでも言うような顔をして海のことを横目で見ているに違いないと思ったが、海にはそれを確かめる勇気はなかった。
伊吹が職員室を出て行くうしろ姿にチラッと目をやり、きっとあとでまた嫌味っぽく詮索されると思うと、
“オリオンのバカ!こうやって意味ありげに私だけ残すことないじゃん”
配慮が足りない担任を疎ましく感じた。
“それとも意図的に?”
まだつき合いが浅い担任の考えは、海には読み取ることができなかった。
「3時間目遅刻したんだって?」
海がムッとして何も答えずにいると、
「英語の教科書忘れて、空がわざわざ持って来てくれたらしいじゃん。」
「何で知ってるの?」
「うちのクラス以外の生徒が旧館にいると、かなり目立つからな。」
「もうヤダ!何で9組だけ離れなの!」
「オレだって嫌だよ。少なくとも朝と帰りの2回、ホームルームだけのために遠く離れた教室まで行かなきゃいけないんだから。でも考えようによっては、他の先生の目を気にしなくていいから気が楽なんだよな。」
“どれだけ先生たちから目つけられてるのよ!もう9組もやだしオリオンもサイテー!”
「遅刻した分と教科書忘れた分で✕6になっちゃったな。前にも言ったけどいったん5回分を清算するぞ。」
伊吹が言っていた廊下を全力疾走したことはバレていないようで、少しだけ救われた気がした。
「何か言いたいことがありそうだな?」
「別に。」
本当ならこんな制度すべてを否定したかったが、海1人が抵抗したところでどうにもならないことは分かっていた。✕には無縁の優等生くんの意見なら聞き入れてもらえるのかもしれないが、クラスで真っ先におしおき対象となるような問題児ちゃんが何か言っても言い逃れにしか思われないだろうから。
「清算って何?」
「生徒指導室行くの面倒くさいからここでいいか?」
海の中では『おしおき=お尻叩き』だったので、ここでというのは絶対に却下しなければならない。昼休みで他の先生方が次々と戻って来て昼食を取ったりくつろいだりしている中で、さすがにそれは・・・。
「生徒指導室がいい。」
「えっ?そうなの?ここじゃ恥ずかしい?」
“恥ずかしいことなの?それってやっぱりお尻ってこと?もうっ!どうして私のまわりにはお尻叩く人ばっかりなの。オリオンにお尻叩かれるなんて考えられない。私のお尻見られちゃうの?女子高生のパンツ脱がせたら教育委員会に訴えちゃうから。スカートの上、せめてパンツの上からにしてほしい”
海は妄想でいっぱいになった頭の中で、ごちゃごちゃと考えを巡らせた。
「じゃああっち行くぞ。」
担任は職員室を出て生徒指導室に向かった。
“もしここでクルッと向きを変えて逃げ出したら、オリオンは追いかけてくる?しょうがないなーって言って笑って許してくれそうな気もするけど、さらに✕が追加されてしまう危険性の方が高いよね・・・。あーもうどうにでもなれ。潔くお尻叩かれて、早く教室戻ってお昼食べよ!”
海はようやく気持ちの整理がついて、スタスタと早足で行ってしまった担任のあとを追いかけた。生徒指導室に着くと、入り口で上履きを脱いで畳の部屋に入った。担任はあぐらをかいて座り、自分の前の畳をトントンと叩いて、
「海、ここに座って。」
担任の目の前に少し距離をとって正座した。
「うちのクラスのおしおき第1号おめでとう!」
「全然嬉しくない。」
「それにしても昨日ここで忠告したばかりなのに最速だな。」
感心したように言うので、
「だって空が待ち合わせた所にいなかったんだもん。」
「そうか、連携ミスか。双子といえども意志の疎通は難しいよな。帰ったら空に文句言ってやれ。あんたのせいで昼休みおしおきされたって。」
担任の口から『おしおき』という言葉が飛び出す度に、海はドキッとして目を伏せた。
「はい、じゃあよつんばいになって。」
「は?」
突然言われて海は戸惑いを隠せなかった。
「よつんばい?」
「そう。」
「何するの?」
「おしおき。」
「何でよつんばいなの?」
「お尻叩くから。」
「えー!嫌なんだけど。」
「中学時代お尻たくさん叩かれてきたから免疫は充分あるだろ?」
「えっ?何でそんなこと知ってるの?」
「あおいろ中学にはお尻を叩く先生が何人もいるって、高校教師界隈でも評判だからね。3年間のうちにほとんどの生徒がその洗礼を受けるらしいな。今どき珍しい素敵な中学だよなぁ。」
“ステキって・・・それのどこが素敵なの?”
羨ましそうに言うオリオンを見て、海はこの人もお尻叩く部類の人間なんだと確信した。
「高校に進学したばかりで早くもこういう状況になってるということは、海がおしおき常習犯だったのは間違いない。」
「大正解!」パチパチパチと拍手を送りたかったけれど、そんな風にふざけている場合ではなかった。よつんばいは嫌だ。お尻叩きは免れないとしても、せめておひざの上がいい。なんて初めておしおきを受けるオリオンのひざの上をねだるのも図々しいというか甘えているというか恥ずかしいというか。
海がまったく動こうとしないのを見て、
「早く早く。オレの貴重な昼休みが終わっちゃうだろ。今日は夜に備えて、いろいろと下調べしないといけないんだ。」
「何?合コン?」
「いやいや、れっきとした勉強会だ。まあ楽しい方のお勉強だけどな。」
突っ込んで欲しそうなオリオンを完全に無視して、海だって早くこの状況から解放されたかったので、仕方なくもぞもぞとオリオンの前で両手をつきよつんばいもどきのポーズをとった。
“やだっ、これじゃスカートめくれてパンツ丸見えになっちゃうじゃん”
海が必死にスカートの裾を引っ張っているのを見て、
「両手ちゃんと前について。」
と注意され、仕方なく両手を前に置き、オリオンの目線からお尻が直視できないように少し体の向きを変えてよつんばいになった。
「これからお尻叩かれるっていうのに、無駄な抵抗しちゃって可愛いね。やっぱり初めての人にお尻叩かれるのは経験豊富な海でも抵抗あるの?」
“そんなの当たり前じゃん”
頬を赤らめ、海は何も答えず目をギュッと閉じた。
つづく