1.お互いに影響し合って
月美はあおいろ中学での教育実習を終えて、今日pm3:00 ようやくヒップハートに予約を入れることができた。実習は精神的、肉体的にかなりハードだったが、やり遂げたという達成感は月美にとって大きな糧となった。失敗も多々あり誇らしく語れる結果にはならなかったが、それでも貴重な経験、素晴らしい思い出として心に深く刻み込まれた。
少し時間が経つと、今度は虚脱感にさいなまれた。文化祭や修学旅行、部活の最後の大会など、大きな行事のあとにやってくるアレである。事前の準備や練習が大変であればあるほど、また長い間ずっと楽しみにしていたことや、目標に向かって全力を尽くしてきたことが終わってしまったとき、その喪失感は計り知れないものとなる。
3週間の教育実習では、普段の大学生活とはまるで違う緊張した日々を送り、実習後に提出する大量のレポートからも解放されて、ホッと一息ついたところにこの症状が表れた。心にスッポリと穴が開いたようで、今は何もしたくない。
こんな状態でヒップハートに行ったら、「やる気はあるのか?」と怒られて、ますます悪循環に陥ることは目に見えていた。何とか気分を変えなければ・・・と焦るのだが、どうすることもできないまま予約時間を迎えてしまった。以前の月美なら迷わずドタキャンしていたのだろうが、それが迷惑をかけることだというのは充分認識していたし、弱い自分に負けて逃げ出してしまうのは嫌だった。
月美が入口のドアを開けると、受付にいた眞木野がニコニコと出迎えてくれた。
「こんにちは、月美さん。ずいぶんとご無沙汰してます。お元気でしたか?」
「はい。教育実習も終わって、レポートも提出したので、やっと落ち着くことができました。あっ、講習会のときはお世話になりました。」
「いえいえ、こちらこそ協力していただきありがとうございました。顔色が悪いように見えますが、大丈夫ですか?」
“やっぱり眞木野さんには、全部見抜かれちゃうんだ・・・。”
月美は改めて、眞木野の洞察力の鋭さを感じた。
「ちょっと気が抜けてしまって、活力がないというか・・・。」
「そうですよね。それだけ、教育実習を成し遂げるというのは大変なことですから。慣れない環境で、得体の知れない中学生を相手にさぞ苦労したことでしょう。この経験は月美さんにとって、とても有意義なものになるでしょうし、自信にも繋がると思います。どうもお疲れ様でした。」
眞木野は人が嬉しくなる言葉を知っているし、弱った心を解きほぐし和ませてくれる天才だ。だからいくら厳しいところがあっても、みな信頼感を抱き、この人についていこうと思うのだろう。月美の憂鬱な気分もほんの少し眞木野と話しただけで、ふんわりと軽くなった気がするから不思議だった。
「今日からまたビシビシとしごかせてもらいますよ。たるんだ気持ちを引き締めて、気合いを入れていきましょうね。いつまでも感傷に浸っていたら、お尻に火がついて大変なことになりますから。」
「えっ・・・。」
ほめたたえ持ち上げたあとのこの鋭い言葉。こういった心理を揺さぶる技を巧みに使いこなすのだから、月美ごときの若輩者には到底太刀打ちできず、手の平で転がされてしまう。
月美は着替えてからトレーニングルームに入ると、そこには鉄棒とにらめっこしている星の姿があった。お互いにハッとして、ペコリと会釈を交わした。
「星くん、久しぶりだね。元気だった?」
「うん。月美先生は?」
「私も元気だったよ。星くんここに来るの、土曜日じゃなかったっけ?」
「昨日も来たんだけど、また今日も。」
「鉄棒やってるの?」
「逆上がりの特訓。」
「頑張ってね。」
「うん。」
「ねぇ、今日終わったら、ちょっとお茶しない?待ってるけど、遅くなりそう?」
「えっと・・・ううん、大丈夫。すぐ終わる。」
全然大丈夫じゃないし、すぐ終わるはずがないのに・・・。月美と久しぶりにプチデートがしたくて、星は見栄を張ってしまった。
そこへ眞木野が入って来て、
「月美さん、すみません。星、逆上がりができなくて、昨日から指導してるんですよ。そのまま続けさせてもいいですか?」
「はい大丈夫です。」
月美は約2か月ぶりのトレーニングとなるので、念入りにストレッチをした。鉄棒とは少し離れたところに眞木野と並んで座って、体をほぐしながらおしゃべりタイムとなった。
「実習はどうでしたか?」
「すごく勉強になりました。いろいろあったけど、最後にはお別れするのが悲しくて。」
「面倒なことに巻き込まれたらしいですね?」
「えっ?」
「高也から聞いてますよ。女バスの海でしたっけ?双子の妹の方。」
「あっ、はい。巻き込まれたというか、あれは私にも原因があって・・・。」
「それで高也からおしおきされたそうですね?」
月美は慌てて、星がいるから内緒にして!と人差し指を立てて小声で「シー」と合図を送った。星は背中を向けていたので、今の会話が聞こえていたかどうか分からないが、鉄棒にしがみついたままさっきから少しも動いていなかった。
「聞かれるとまずいですか?」
月美は黙って首をコクンと縦に動かした。
「それではその話は、あとでゆっくり聞かせてもらいましょうね。」
眞木野の穏やかな口調がとても怖く感じた。
「あいつ、今度は高也宛てに果たし状を送りつけたら大変なので。」
「果たし状ですか?」
「あれ?月美さんは知らないんでしたっけ?実は」
眞木野の言葉を遮ったのは星だった。
「眞木野さん、一生のお願い。それ以上言わないで!」
「何だよおまえ。こっちの話、聞こえてたのか?また自分の世界に入り込んで、現実逃避してたんじゃないのか?」
「違う。イメトレしてただけ。」
「イメトレでも瞑想でも続けてろ。時間はどんどん過ぎていくからな。」
「大丈夫だから、黙ってて!」
「何を?」
「だから・・・・。」
「ああ、果たし状のことな。」
星はほっぺをプーッと膨らませて、
「言うなってば!」
口調が荒くなり、本気で嫌がっている様子が伝わってきた。
「何だおまえ、恥ずかしいのか?」
「そうじゃなくて、あれはもう解決したことだから。」
「解決したなら、いいんじゃないか?」
「絶対ダメ!言ったら眞木野さんのこと嫌いになるから。」
「せっかくの美談なのにな。」
“オレのこと嫌いになるって?もうとっくに嫌われてるかと思ったが、満更でもないってことか?”
眞木野は星の慌てぶりが面白くてついついからかってしまったが、一生のお願いをされてしまった手前、とりあえずその件は封印しておくことにした。
月美は2人の会話の意味がさっぱり分からず、ただキョトンとするだけだった。
“果たし状って何のこと?星くんが誰かに渡したの?星くん、そんなことする子じゃないよね?でもあんな風に眞木野さんにつっかかっていくってことは、よっぽど私に知られたくないんだね。”
「月美さん、今お客さん全員に逆上がりをやってもらっているのですが、月美さんにも挑戦してもらってもいいですか?できなくても、星みたいに居残りはさせませんから。」
「はぁ・・・。」
「星はまだ中学生なので今からでも間に合いますが、月美さんぐらいになるとさすがに難しいと思いますので。」
「はい・・・。」
星は月美が運動神経がよくないのを知っていた。ヒップハート主催の講習会でも明らかにされたことだし、本人も「運動は苦手」と常々言っていたので、心の中で
“月美先生、頑張って!できなくても大丈夫だから。”
とエールを送った。
眞木野も今までトレーニングを重ねてきて、月美の身体能力は把握していたので、
「形式上、一応やってみてください。」
と言葉を添えた。
「鉄棒なんて中学生のときにやったきりです。」
月美は首を傾げながら逆手で鉄棒を握ると、スッと体を宙に浮かせ、クルッと回転してきれいな逆上がりをやって見せた。
それを見た眞木野も星も、
「えっー!」
と驚きの声を上げ、目を大きく開いて月美を見つめた。星は
「何で?」
と不思議そうに、そして抗議するかのように尋ねた。
月美は星に申し訳なさそうに、
「体育、全部苦手だったけど、なぜか鉄棒だけはできたの。できたって言っても逆上がりと後ろ回りぐらいなんだけどね。」
「後ろ回りってどんなの?」
星が聞くので、月美が言葉で説明しようとすると、
「実演してください。」
と眞木野に言われ、これもまたきれいな後方支持回転を披露した。
小学校3年生の担任が若い男性の熱血教師で、クラス全員が逆上がりをマスターするために、昼休みや放課後に積極的に指導してくれたらしい。逆上がりは小学校低学年のうちにできないと、それ以降ではなかなか難しいとも言われているようで、まさに月美の場合4年生5年生と年齢が進むにつれ可能性は極端に低下していったに違いない。いい指導者にいいタイミングで出会えたことに感謝すべきだろう。
いつの間にかトレーニングルームをのぞいていた芳崎は、
「逆上がりって、運動神経関係ないんだな。」
新発見でもしたかのように、1人で納得してその場を立ち去った。
星のポカーンとした表情とは対照的に、眞木野はこれ見よがしに月美をほめまくった。
「月美さん、素晴らしいです。感心しました。星はどうしてこんな簡単なことができないんでしょうね。」
星をあおれば、いつものようにいじけるかと思いきや、
「月美先生すごい!かっこいいね。僕も頑張って、絶対に逆上がり制覇するね。」
月美のお陰で、俄然やる気がアップしたようだ。
果たして星は、『逆上がり』を攻略することができるのか?それとも、お尻を一生叩かれ続けるのか?・・・乞うご期待~(*‘∀‘)
つづく