1.意地悪な眞木野
ヒップハートのドアを開けると、いつもよりざわついている気配を感じた。受付に予約カードを出してから待合室のソファに座ると、眞木野がトレーニングルームから顔をのぞかせた。
「月美さん、こんにちは。今日、南が急用で早退してしまって、バタバタしてるんですよ。」
バタバタしてると言っている割には、落ち着いた口調で眞木野は言った。
「大変そうですね。」
「私1人で回しているんですが、この時間は予約が詰まっていて・・・。大変申し訳なく思うのですが、次に入っている方と一緒にトレーニングさせてもらってもいいですか?」
「あっ、はい。」
「よかったです。とても助かります。月美さんより少し年上の女の方になりますが。」
眞木野にお願いされ月美は何も考えすに承諾してしまったが、更衣室に入って頭を整理すると、
“他の人と一緒にトレーニングするなんて、私、大丈夫なのかな?”
不安な思いがどんどん膨らみ、着替えるのにいつもの倍の時間がかかった。
“嫌です!って言えばよかった。でもそんな風に言える雰囲気じゃなかったし。それとも今日はキャンセルして帰ればよかったのかな?”
いつまでも更衣室にこもっている訳にもいかず、重い足取りで待合室を通り抜けた。
トレーニングルームにはすでに眞木野と女の人が入っていて、親しげに談笑していた。その女性は30代半ばぐらいに見えた。月美が少し肩身が狭そうな様子で入って来ると、
「月美さん、こちらが杉田さんです。杉田さんは月美さんよりも経験が長いので多少レベルは違いますが、どうぞよろしくお願いします。月美さんはまだ今日で10回目ですね。ベテランの方と一緒にできるというのは、いい刺激になると思いますので、張り切ってやっていきましょうね。」
眞木野に紹介されて、お互いに頭を下げた。
月美は「レベルが違う」と言われ、足を引っ張ってしまうだろうと憂うつになったが、眞木野が言うように「いい刺激になる」と考え方を変えてみようと思った。自分があまりにも惨めになったときには、眞木野がうまく取りもってくれるだろうと安心していた。彼はそういう気遣いをしてくれる人だと思っていたから。
トレーニングがスタートすると、始めのストレッチから2人の差は歴然としていた。月美はお風呂上がりにストレッチを毎日続けていて、以前に比べればだいぶ柔軟性がでてきたとはいえ、まだまだ杉田さんの足元にも及ばない状態だった。2人は並んで指示された動作をしていたが、良い例と悪い例の典型的な見本のようだった。
眞木野はこうなることは見越していたので何も気にしていなかったが、月美は始まって5分という時点でかなりの落ち込みようだった。そのあとは月美が今までにやってきたことを中心に進めてくれたのだが、そのすべてにおいて杉田さんの方が勝っていた。あくまでもトレーニングであり、勝ち負けを競うスポーツではないというのに、月美はおかしな捉え方をしてしまった。
「経験値が違うのだから当然だ」と割り切ることができず、月美は徐々に無口になっていった。情けなくて悲しくなって落ち込んで、どんどん卑屈になっていく自分を抑えることができなかった。そういった感情は露骨に態度にも表れ、眞木野が話しかけてもブスッとしていることが多かった。
対照的に杉田さんは明るくペラペラとよくしゃべり、これがきっと彼女にとってはいつもと変わらないトレーニング風景なのだろう。眞木野と彼女の会話は弾み、まるで月美の存在が無のような感じで時間が経過していった。もちろんそんな2人の世界にドカドカと割り込めるほど、月美の精神は強くなかった。
「月美さん、もう疲れてしまいましたか?」
大して疲れるようなこともしていないのに、眞木野にはそう見られているのかと思うと、ますます情けなくなり無言で首を振った。いくら体力のない月美とはいえ、まだまだ動けるということは眞木野だって分かっていたはず。あえて意地悪な言い方をして月美を追い込んでいたことを、月美自身は気づかなかった。
「杉田さんは、これではまだまだ物足りないですよね?」
人の良さそうな杉田さんは月美に遠慮しているようで、はっきりと返事はしなかったが、
「月美さんはちょっと休んで見ていてください。」
眞木野はそう言うと、杉田さんに向かって、
「いつものやりましょう。」
と準備を始めた。
そして、3種類の運動を組み合わせて行うサーキットトレーニングとやらを始めた。月美はまだやったことのない複雑でハードなものだった。杉田さんはハアハアと息を切らしながらも、眞木野から
「杉田さん、さすがですね。」
とほめられた。
「今日はまだ大丈夫そうです。」
きっと彼女は何の悪気もなく、率直な感想を述べたのだろう。
「今日はいつもに比べたら、全然動いてないですからね。」
きっと眞木野は月美の気持ちを分かった上で、そういう言い方をしているに違いない。
月美はレベルの違いを見せつけられ、呆気にとられてトレーニングの様子を眺めていた。そこに眞木野が発した自分を非難するような言葉を聞き、だんだんと目の奥に熱いものがこみ上げてきた。次に何か言われたら、ドッと涙があふれてしまいそうな状態だった。
杉田さんの息が整うのを少し待ってから、
「では最後に、ちょっとしたお遊びをしましょう。」
眞木野はチューブを取り出し、片方を杉田さんに、もう一方を月美に渡した。
「これを綱引きのように、お互いに引っ張り合ってください。右手だけ、左手だけと私が指示を出すので、それに従ってください。」
簡単なことを言われているのに、月美には眞木野の説明がまったく頭に入ってこなかった。実際にやってみると月美の動きはぎこちなく、集中力も欠いていた。すぐに眞木野のストップがかかった。このままでは相手にケガをさせてしまう危険性があると判断されるほど、月美は上の空だった。
ようやく30分間のトレーニングが終了した。月美にとっては1時間にも2時間にも感じられるほど、長い長い苦痛の時間が続いた。最後まで杉田さんは元気よく楽しそうに真剣に取り組み、そして月美は覇気がなくつまらなそうにだらだらしている印象が残った。正反対の2人だった。
そのあと眞木野から信じられない言葉が告げられた。
「2人とも着替えて、ヒーリングルームに来てください。」
「えっ?」
月美は
“うそでしょ?”
と確認するような視線を眞木野に送った。眞木野は優しそうに微笑むと、
「反省会しましょうね。」
と言ってひと足先に奥の部屋へ向かった。
「私はトイレで着替えるから、更衣室を使ってね。」
杉田さんは月美に優しかった。月美が落ち込んでいることも分かっていたが、自分がそういう状況のときを考え、声をかけるのは控えることにした。ヒーリングルームに入ると2人は、先にソファに腰かけている眞木野と向かい合って座った。月美はどんよりとした重たい空気に包まれるような不快感を覚えた。
“ここでおしおきされちゃうの?他の人がいるところでなんて耐えられない。もしそう強要されたら、絶対に嫌だと断ろう。”
月美の頭の中は、自分の身に起こるであろう『おしおき』のことでいっぱいだった。
眞木野はそういう気持ちを考慮してくれる人だと思っていたが、今日のトレーニングの様子から察すると、全然構わずにここでお尻を叩かれてしまいそうな恐怖心が湧きおこる。
「月美さん、どうですか?」
突然、眞木野に質問された。夢中で考えごとに思いを巡らせていたので、答えられるはずもなく、
「えっ?あっ、すみません。もう一度お願いします。」
と聞き返すと、
「私の話、全然聞いてませんでしたもんね。」
ニコリともせずに、厳しい言葉を返された。
「この1週間、何か困ったことや、叱ってほしいと思ったことはありましたか?」
自分の前に杉田さんにも同じ質問をしていたのだろう。彼女が何と答えたのか気になりつつ、月美は
「何もなかったです。」
と答えた。
「そうですか。では、今日のトレーニングも含めていかがでしたか?」
眞木野がわざわざそう言って月美を誘導しているのに、
「いえ、別に何もありません。」
シラーッと答える月美を、眞木野はジロッとにらみつけ、
「自分が見えていないというのは、まったく話になりませんね。」
容赦ない言葉…それが的確だっただけに、月美は反論する余地もなく体が固まった。
“どうして眞木野さん、今日はこんなに厳しいの?厳しいというより、ものすごく冷たい。いつもならもっと優しい言葉をかけてくれるのに。私のこと目の敵にしているみたい。杉田さんと私、全然態度が違う。”
そのあと杉田さんがおしゃべりするのを、
“この人嫌い。早くこの時間が終わってほしい。”
と思いながら聞き流した。もちろん月美が口を開くことはなかったし、眞木野も月美に話を持ちかけたり、共通の話題を提供してくれることもなかった。月美の知らない話で盛り上がり、一人蚊帳の外に出された気分を存分に味わい、ますます居心地の悪さを感じた。
「さあ、そろそろ。」
眞木野がそう言うと、ピリッとした空気が流れた。
「杉田さん、今日はおしおきはどうしましょうか?」
「今日は大丈夫です。」
「分かりました。また1週間頑張ってください。」
「はい。ありがとうございました。」
「では、月美さん」
眞木野が言いかけたので、月美も慌てて、
「私も今日は大丈夫です。」
と答えると、
「月美さんには少しお説教が必要なので、このままここで待っていてください。」
そう言うと、杉田さんを見送りに部屋から出て行ってしまった。
ドアがバタンと閉まると同時に、月美の目からずっとこらえていた涙が流れ落ちた。眞木野が考えていることがさっぱり理解できなかったし、杉田さんの前で自分だけが悪かったように『お説教』と言われたのも悲しかった。
“私、悪いことしてないのに・・・。”
誰も味方をしてくれない状況に置かれ、自分の身を守る気持ちだけが胸の中に充満した。
このまま帰ってしまいたいと思ったものの強行突破する勇気もなく、再びドアが開くのを呆然と待つしかなかった。泣いているところを見られたくないと必死にティッシュで涙を拭い、気持ちを落ち着かせようと何回も深呼吸をしてみたが、涙が止まることも気分が楽になることもなかった。
つづく