1.トレーニング
日曜日、月美は目覚ましが鳴る前に布団から出ることができた。土曜の夜、やりたいこともたくさんあったが、さすがに昨日は夜更かしせずに早めに就寝した。今日は絶対に遅刻することはできないから・・・。
眞木野が先週言った、「今日より厳しくしなければなりませんから。」という言葉が頭から離れなかった。この前だってだいぶ痛かったのに、あれ以上されたら我慢できなくて泣き叫んでしまうかもしれない。
予約時間の10分前にヒップハートのドアを開けると、いつもなら受付にいるはずの眞木野の姿はなく、代わりに芳崎が無愛想な顔をして座っていた。
“もしかして、今日の担当は芳崎さんなのかも・・・。”
月美は彼が苦手だった。いつも眞木野が対応してくれていたので、芳崎とは面と向かって話したことがないのだが、態度を見る限りでは、かなり横柄で冷淡な人に思える。オーナーである眞木野との接し方も、立場は下のはずなのに威張って楯突いている感じがして、芳崎に対する印象は相当悪いものだった。
月美は顔を引きつらせ、小さな声で「こんにちは。」とあいさつをした。芳崎はニコリともせずに、形式的なあいさつを済ませると、「今日の担当は自分です」とも「調子はいかがですか?」とも言わずに、そのままトレーニングルームに入って行った。
月美は更衣室に入ると、“嫌だなぁ・・・。”と憂うつな気分でウェアに着替えた。それでも気をとり直して、タオルとペットボトルを持ってトレーニングの準備をしている芳崎のところに向かった。すると信じられないことに、いきなりお尻をパーン!とはたかれた。
「キャッ!」
“着替えが遅かった?”
“私、何か悪いことした?”
突然のことで訳が分からず、飛びのけてキョトンとしていると、
「姿勢。」
とだけ言われた。
“これはどういうことなのだろう?きっと姿勢を正せという意味だと思うが、それなら単語ではなくきちんと文章にして伝えてほしい。それにいきなりパーン!なんてひどすぎる。”
「この前、眞木野さんから姿勢について話を聞いただろ?」
すごく上から目線で、叱りつけるように言われて、
「え?え?え?」
“そんなの知らない。”と口に出すこともできずにオドオドしていると、芳崎は個人ファイルに目を移した。
「今日、体験入れて3回目だよな?」
「あっ、はい・・・。」
芳崎はファイルを見つめたまま、
「何だ、前回トレーニングしてないのか。遅刻って赤字で書いてある。トレーニングさせてもらえずに、おしおきだけ受けたってことか。」
ブツブツと一人でしゃべって、勝手に納得してうなずいていた。
「じゃあ姿勢の話も聞いてないってことか。」
“そうだよ!それなのに、さっきお尻叩いた分、謝りなさいよ!”
心の中で叫んだが、直接本人に言う勇気はなかった。
「トレーニング中は決して姿勢を崩さないこと。自分は今、トレーニングをしているという意識を最後まで切らさず、少しでも気を緩めないように。お腹とお尻に力をキュッと入れて、胸を張って、肩の力を抜いて、背筋をピンと伸ばして、首を長くして、目線は常に前へ向ける。」
芳崎は説明しながら月美のお腹や背中、頭や肩、腰やお尻まで体中を触って、きれいな姿勢を作りあげていった。月美はされるがまま、まるでマネキンのように突っ立っていると、
「次からは全部、自分でできるようにな!」
お尻をバシン!と叩かれた。
「下を向かずに鏡を見て、常に姿勢をチェックすること。だんだんと鏡を見なくても自分の姿を想像できるくらい感覚が研ぎ澄まされてくるが、それはまだまだ先の話だ。とにかく今は、理想的な形を徹底的に体に叩き込むこと。そうすることで日常生活においても、よい姿勢を保つという意識が芽生えてくるはずだから。」
芳崎が真剣に話すのを聞いて思わず、
「すごーい!」
と言ってしまい、
「は?すごいじゃなくて、自分でしっかりと意識改革しろって言ってるんだ。魔法にかかる訳じゃないんだからな!」
「・・・はい。」
話をしているうちに、月美の姿勢はだんだんと崩れていく。体験のときに眞木野に指摘されたように、右足に重心をかけて立つ癖があり、休めの状態で体が右側に傾いてしまう。すかさず、芳崎の右手が月美のお尻を打った。
「キャッ!」
「今言ったばかりだろ!どこに耳つけてんだ!」
月美は慌ててピシッといい姿勢をとったつもりだったが、再び体中をあちこち触られ、もちろん嫌味を言われながら立ち方を直された。
“ずっとこんなのが続くの?全然気が抜けない・・・。”
月美は芳崎に気づかれないように、小さくため息をもらした。
芳崎からすれば、
「だいたいトレーニング中に気を抜くなんて考える方がおかしい。たかが30分、集中しろ!」
即座に言い返されてしまうだろう。
“それにしてもトレーナーさんて、平気で人の体を触りまくるんだ。お尻とか腰とか太ももとか、普通なら男の人には触られないようなところも自然に触ってくる。眞木野さんもそうだった。でも、それがいやらしい感じではなくサラッとしているから、こっちも嫌な気分にはならないけれど。”
まだパーソナルトレーニングというものに慣れていない月美は、その度にビクッと体をこわばらせていた。
“でも、芳崎さんは人のお尻を叩きすぎる。眞木野さんみたいに口で言ってくれれば分かるのに。”
頭の中をクルクルといろいろな思いが駆けめぐり、またもや体が右側へ傾いていた。芳崎が右手を振り上げるのと同時に、ハッと気づいて重心を真っすぐに正したので、お尻への一撃は何とか免れた。
「集中力を切らすな!」
お尻は叩かれなかったものの、怒鳴られるのは避けられずに、月美はペコッと頭を下げた。
“毎回こんな緊張状態が続くのかと思うとうんざりするが、とにかく『姿勢を正しく』を肝に銘じておこう。”
次にストレッチをした。芳崎と並んで鏡の前に座り、見よう見まねで同じポーズをとったが、自分が不格好すぎて悲しくなった。昔から体が硬いのだから仕方ないと割り切っていたが、芳崎からは露骨に「硬っ。」とか「まじか。」とか言われ、最後の方には「無理だと思うが。」の前置きつきで手本を示された。
体験のときも同じ状況だったので、月美の体が硬いことは把握しているはずなのに、意地悪なのかそれとも再確認をしているのか月美には分からなかったが、一つ言えることは、眞木野と芳崎の対応が違いすぎるということだった。眞木野はやんわりと月美があまり落ち込まないように指導してくれるのに対し、芳崎は人の気持ちなんて考えずにズバッと傷つくことを平気で言ってくる。
「勢いつけたって無理なもんは無理だ。少しずつ慣らしてけ。」
そんなこと言われなくても分かってるけど、芳崎にバカにされていると思うと悔しくてたまらなかった。
最後にバランスボールを使って腹筋を鍛えるトレーニングをしたが、
“自分は腹筋も弱いらしい。”
という現状を突きつけられて終了となった。
落ち込んでいる間もなく、
「汗かいてないから、そのままでいいよな?」
質問ではなく指示を出され、ヒーリングルームに移動した。
“今から私、この人におしおきされちゃうの?嫌だ・・・。眞木野さんがいい。眞木野さんみたいな穏やかな人なら身を任せられるけど、こんな乱暴で人の気持ちを考えてくれない人と話したり、悩みを打ち明けたりしたくないし、アドバイスもお説教もあり得ない。ましてやお尻を叩かれる展開になったら、どうしたらいいのか分からない・・・。”
この場から逃げ出したい衝動にかられたが、そうすることもできずに仕方なくソファに座り、ドキドキしながら芳崎の言葉を待った。
つづく