汝の意志するところをなせ:補足 | Abrahadabra

Abrahadabra

アレイスター・クロウリーの著作の研究

前回の補足

 

やりたいことだけやって、好きなことだけやって、乗り越えていければそれに越した事はないだろうけど、そんなに甘くないかな。これは『法の書』を読んだ人が初めにつまづくところだと思うけど、この世界はやりたくないこともやらなければならないという部分はあると思う。それに関しては、ここからも見てとれる。

 

30.もしも〈意志〉が立ち止まって、〈そのわけは〉を召喚しながら〈何故〉と叫ぶようになりでもしたら、〈意志〉は停止して何事をも為さずじまいになってしまう。

 

31.もしも〈力〉が何故と問うようになれば、〈力〉も弱みに等しい。

(『法の書』第2章)

 

それから、ここ。

 

61.汝の眼の前には光がある、おお預言者よ、望まれてはいないが最も望ましい光が。

(『法の書』第2章)

 

それでもラー=ホール=クイトが最後の方に

 

60.汝の意志するところ行え、ということ以外に法はない。

(『法の書』第3章)

 

と言ってるように、やりたくないことをやらなければならないとしても、それでも自分の意思、やりたいこと、欲してること、望んでることをやる事が法だと言ってるんじゃないかな。

 

あと『法の書』を読んだ人がつまづくところは、何かをやろうと思ってだけど、予定外の邪魔と思われることが起きた時。

 

42.…汝の一切についても同じことである。自らの意思を行うよりほかに、汝には何らの権利もありはしない。

 

43.それを行うのだ。しかも、他の誰にも否と言わせてはならね。

(『法の書』第1章)

 

まあ本当に相手に非があり、不当に妨害をしているなら、排除すべきだと思うけど、合法的に、常識的に。

 

そうではなくて、単に落ち着いてやりたいことをやれる環境でなくなったのなら、急ぎの用ならやればいいけど、そうでないなら、43のように言ってるからと言って、苦しい思いをしてまでやる必要はないんじゃないかなと思う。それは負けでもないし、逃げでもない。

 

9. 汝らのやることはすべて正しい、汝らがそれを楽しんでいるのならば。

(『Liber צ(Tzaddi )』)

 

とあるように、楽しんでないと意味がないと思う。

 

それでも今はコロナ禍でもあるし、なんでこんな事をしなくてはいけないんだと思うことも多いかもしれない。『霊視と幻聴』にはこんな内容が書かれている。

 

気がつくと、広々とした曠野の、ドルイドの輪の中に立っていた。

 

砂漠、日没、想像を絶するような緑色の海に浮かぶ島々、といった美しい幻影が続いて現れる……しかし、そこには生き物の影が全くない。

 

声は続く。「これが、実りなき愛と目的なき苦役の中に潜む神聖さである。目的のない、行為のための行為こそが一意専心の名に値するからであり、目的のための手段とは相容れない神聖さだからである。そこにこそ、真の〈魔術〉の信仰、共感、そして知識がある。

 

おお、愛する者よ、鳩の如く空を飛翔する者よ、ハヤブサに気をつけよ!おお、愛する者よ、ガゼルの如く大地を跳躍する者よ、ライオンに気をつけよ!」

(『霊視と幻聴』第2番目のアエティール)