震災後、日本全体が良くなったように思うのは、

私だけだろうか。


この大震災で、失った生命・モノ・自然。

いまだ行方もわからぬ生命・モノ。


この悲しみに慈しみ他人ごとでいられない日々。


まったく揺れていない地域だったら、どんな風に感じ、考えていたのだろうか。


多くを失った日本だけど、

震災以前から失いかけていたもの、都会ではすでに失っていたもの、

それが、いつの間にか理屈でなく気持ちで、思い出しかけているように感じる。


以下は、この3週間に感じたことをランダムに書き綴ってみる。

文脈は、おかしいかもしれない。

少しでも行間が読み取れる工夫が必要だと思うが、

じわじわと思いつくままで失礼させていただく。



坪野和子の音楽社会人類学研究所 アメブロ別館




節電。基本的には、家庭ではエコのため、

ほとんど実施ずみに近い。

強いて言えば、PCのコンセントを抜いていないことくらいか。

電話の子機も不使用だし、エアコンの存在がない。

マメに消灯しないと家族同士でなじりあいになるし。

「お前、消せっ!!地球のためだ!!」


さらに必要ならと思って、炊飯器を使わず、土鍋で炊いていたが、

その間の照明がもったいないので、やめた。

洗濯もインドにいた頃のように手洗いしようかと思ったが、

それより1回でたくさん洗濯のほうが合理的に節電できそう。

PCはなるべく時間を決めてつけっぱなしにしないことにした。

とりあえず、停電でない場合、電力を小さく使うことに変更した。

…私自身が疲れてしまったから…。


亭主は、テレビを見続けているのに。


ラサでは突然停電なんて普通だったのに。

いや、大阪万博の前くらいまでは、突然停電がしょっちゅうあった。

その頃、見たいアニメが見られないで、そのままお布団へ。

そのまま寝ちゃった園児・小学生だった。



計画停電は、昔、インドやネパールで過ごしていたころは、

当たり前にあったことなので、夜に電気がなくなれば寝る、

昼間電気がなくてもなんでもない。


途上国では普通のことが出来ないはずがない。


計画停電に合わせて色々な準備をして、

「?電気来ている??」

…これも疲れましたね…。


で、それでも自宅では小さく努力している。


ついでにインドにいた頃、水は、朝7時から10時まで家に来る。

夜は5時から8時まで。

来たときに水を溜めて1日必要な分を甕とバケツと灯油容器みたいな入れ物に入れていた。

風呂はもともとなかったけれど、お湯を浴びるのには十分だった。

むしろ、もしも時間制の水道が来なかったら、山道を往復1時間半2回になる。

そういう水道でもありがたかった。

(水汲みは女性の仕事なので亭主に行かせるわけにはいかなかったし)

今でも朝、お湯を沸かして、保温マグボトルに入れてキープしている。

なにも、ひねればじゃんじゃん水が出てくる必要はない。

毎日何回もシャワーやシャンプーをしている日本は、少しおかしいと思っていた。

丁寧にドライヤーをかけて毛づくろいしている女の子を見て、

こんなんでいいのか日本、って思っていたけれど、

街中がそんなカンジだから、私のほうがキタナイへんなおばちゃんに見えていた。

しかし、仕方ないかなって諦めて、髪をなるべく整えるように心がけた。

さらについでに、「だんだん化粧厚くなってくるよね」と女の子の会話。

[…被災地避難中の女性はクリームか化粧水くらい塗れているのだろうか、

そっちのほうが重要☆がびがびになって辛いだろうな]

そこまでしなくてもキレイなのに、すっぴんでいる女の子が少なくなっている。

こんなんでいいのだろうか・・・。

(若い人はお金を使わないといわれているが、そういう消耗品は私たちの若い頃より使っていると思う)


で、節電に戻る。


あらゆる駅で、エスカレーターが一部または全面止まっている。

悪くないと思う。

お子さん連れやお年寄りや弱者のかたは、エレベーターを使用すればよい。

車椅子なら、そのときだけ動かせばいい。

健常者には、とてもよい脂肪燃焼の機会だ。

ただ、未だにエレベーターがない駅については利用者の立場で判断していいと思う。

越谷レイクタウンや柏イオンの一部のエスカレーターも止まっていたなぁ。


駅といえば、券売機も時間帯によって一部を止めているところがある。

昔は、駅員さんがface to faceで切符を売っていた。

ローカルな駅だったら、コミュニケーションもあっただろう。

いっそ全部窓口で人の手と人の手で電子切符も展開する時間帯があってもいいかもしれない。

人々の孤独を癒せる瞬間にもなりうるからだ。


電子化して、失った会話ややりとりも少なくない。


商店の一部は、節電で昼間の照明を半分または全部消しているところがある。

これも、もともとなくてもいいと思っていた。

私が経験した海外の土地で、昼間電気の照明がないなんて当たり前だ。

かつての日本もそういうお店がたくさんあったと記憶している。


飛行機で夜日本に帰国したとき、明かりで真っ白な土地が見えていて、

「どこのうちもライトがついているんだ!!」と、驚きではないが、そうだったなと感じたことがある。


節電が解かれても、今後これが続いて欲しいと思う。

キレイなライトで騙されて新鮮に見える刺身より自分の目で鮮度を確かめるような。


で、節電がもっとできるのにと思うのがトイレ。

お尻をあたたかくするのは、とてもいいのだけれど、

流水音、いらないのでは?

勝手に流れる水、ときどきそうでないところがあると、

流れていない人の後を使うことになるので、

確認して始末したほうがよいのではないかと思う。

またウォームレットであれば、フタを閉じていると省エネになるので、

ぜひフタをしてトイレから出て欲しい。

また飲食店などは人がいないとき照明を消しておいて良いと思う。

入る人がつければいいのではないだろうか。


閉店したお店や事務所は電気を消してよいと思う。

治安の問題でつけておいたほうが良い地域もあるだろうが、

道、少し暗い、と思うようになれば早く帰宅する人が増えるだろうと思う。

照明は一部屋でよい、本来人間的な家族で過ごす時間が増えるだろう。


利便性ばかり追求して忘れかけていたシンプルな生活が、

節電によって回復さてれいくのであれば、

それも悪くないと言えるのでは。


ふたたび家庭の節電。


今日お誕生日のブータン人留学生ジグメくんの実家の村では、

村人が多数決でオグロヅルのために電線を引かない、

ツルがかわいそうだから電気はいらないという生活を送っている。

暗い中で、ことわざや伝承を聞きながらすごす生活は過去のものではない。

最近、地中に電気を引く工事がはじまった村もあるようだが、

(地熱発電か地中に電線を埋めるのかは不明)

チベットやブータンのことわざやカギュ派のお坊さんの伝記は、

そのものが豊かな文化で心が温まるものばかりなのだから、

一日中テレビをつけておかない生活も良いのではないだろうか。

どうしようもないバラエティばかり見ているよりも、ずっと文化的だと思う。


インドや中東のイスラムやシーク教の家庭で、

一家の主がテレビの鍵を持ち、お父さんが仕事から帰宅して、食事を終え、

一家団欒の時間になってはじめてお父さんが鍵をあけてテレビを見る。

実際にインドでそういうご家庭に招いていただいたこともあった。

これは、25+年以前の話なので、現在はどうかわからないが、

今でも続いているとよいなと思った。


今からだんだんと日が長くなるから、

できるだけ夜更かしせずに、早寝早起きで

節電できる時間に活動したいと考えている。

当然、自分の健康にもよいはずだ。


節電生活を機に、家族や自分の自然な生活はなんなのか、

もう少し考えて生きたいと。


「本当に、それ必要ですか?」「げぇ~んぱぁぁつ」