高校の職員室で、

「〇〇大学は、教育実習校に手紙を書くよう指導しているのかな」

という声が聞こえた。


さすがお見通し!!


小学校に勤めていたころ、

実習生が挨拶にお茶菓子もって来る、

実習生が職員室掃除をする、

などなど、明らか指導が入っているに違いない行動が見受けられた。


で、そのお手紙は生徒が見える場所に掲示してあげるとか。

うん、ステキな配慮。


で、自分自身について、

教育実習は、ギターチューニング、チェンバロチューニングの、

小間使いだった。

大学院進学を考えていると言った途端、どうせ教員にならないんだろって。

今は、大学院に行っても一般教員になる人も少なくないのだが、

当時、大学院に行くということは、研究者、大学教員志望がイコールだった。


実習生やった大学4年当時、

「プロの音楽家になれない人間は、教員“しか”ない」という落ちこぼれ扱い。

その上の世代は、教員“でも”…だけど。

で、スタートは、食うに困っての教員仕事だったけれど

(もちろん他の選択肢もあってすすんで選んだ)

「お給料もらって」この仕事をしてみると、はるかにステキな仕事だった。


実習生とプロは大きく違う。


教育実習で、感動し、教師になることを志したという話は、

毎年あるのだが、私は、「お給料」があるからこそ、だと思う。


お給料を貰っているからには、

学習者にとって有益な時間をすごしてもらいたいと考えるし、

お給料で、資料を自腹で購入し、勉強することもできる。

お金があるので、余裕が生まれて、生活に追われているわけでなし、

食べさせてもらっているのではないので、自立した気持ちも生まれる。

プロ意識もある。

(バイト塾講師でも、それに極めて近い気持ちがあるだろう)


そして、「せんせい」の仕事は、

3倍勉強をすることができる。

自分の勉強をしなくてはならない。

学習者のための勉強をしなくてはならない。

教えることによって教えられる勉強をしている。


さらに、学習者の人生のお手伝いができる。


ところで、私は、息子にときどきこんなことを言っていた。

「いずれ“教える人”になるんだよ、どんな仕事でも」


サラリーマンになったら、後輩や部下に教える。

プロで武術家やアクション俳優になっても、身体がきかなくなれば、

自分の経験を活かして教える。

親になれば子どもに教える。

何をやっても指導者として、誰かの役に立つのだ。


そして、「せんせい」をやっていると、

社会や教育の問題点がわかってくる。


「生きる力」「問題解決能力」は、

新米の社会人もしくは、新しい職場で身につけなくてはならないもの。

学校で教わるものなのか、実習で学べるのか、

体験を重ねればついてくる能力なのか。

…自分自身の結論が出るまで時間が必要そうだ。

(「自らの学び」で…。自然解決でなく)


加えて、日本の場合、「空気を読む能力」が別個に必要ではないかとも感じる。

「前例」との闘いかたも。


欧米の教育学者の主張に加えていくべきでは。

哲学・社会思想・発達論だけではおさまらないだろう。


※採用試験受験予定者は、デューイのチェックを忘れないこと。

http://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Special:Book&bookcmd=download&collection_id=d86a1d401fcf4191&writer=rl&return_to=Democracy+and+Education



蛇足だが、

問題解決学習と系統学習がなぜ「VS」になっているのか?

教師裁量でできないものなのか?


学習者が望む学習スタイルと教師が涵養したい能力を量って、

授業スタイルを柔軟にかえられるはずだ。

双方の呼吸でよいのではないかと考える。


大学で「音楽理論の勉強がしたい」という声が高くなったので、

系統的な講義と従前の講義内容の中間ですすめることにしたし、

高校で「日本語能力検定対策の勉強がしたい」

「志望大学に日本人と同じ試験に対応できる勉強がしたい」

ということで、問題集を解きながらすすめるようにしているし、

個人レッスン中心の専門学校では生徒さんの希望で。


「教育現場」は、

理念を越えた学習者の理想を実現するための手助けの時間と空間だ。


やはり「せんせい」は、聖職。

尊敬される人間でいられる自分づくりもできる仕事だ。