次に聖武天皇の信楽宮 でしょうか。
元々、奈良の大仏さんは、信楽にできるはずでした。
また、時代はさかのぼりますが、
12代景行天皇、13代成務天皇、14代仲哀天皇の住んだ高穴穂宮 というのもあります。
ヤマトタケルや武内宿禰、神功皇后の時代ですから半神話の時代といっても良いような時代の話です。
僕も、ここには二度程訪れたこと があります。
そしてもう一つ、ここのことを知っている人は滋賀県民でも多くないと思います。
それは、保良宮 というのがありました。
わずか2年半程の間のみ都として存在した幻の宮です。
その所在地もはっきりとはわかっていません。
昨日は、その保良宮についての講座があったので参加してきました。
大津市歴史博物館 の題して、
れきはく講座「保良宮と近江国府」です。
舞台は、瀬田の唐橋のかかる琵琶湖の南、瀬田川を挟んで、
東に近江国府が置かれ、西に保良宮が築かれたと考えられています。
近江国府跡 は、一度散策したこと があります。
その散策時には知らなかったのですが、結構広い範囲に立派な建物が築かれ、いくつかの発掘調査も進んでいるようです。
近江国府は、8町×8町の規模で碁盤の目のように構築されていおり、その四隅に近江一宮建部大社や若松神社 を含む神社が祀られていました。
この地の発掘にさいして2万年程前、石器時代のナイフ型石器が出てきたそうです。
奈良二上山のサヌカイト製だそうで、そんな昔からここには人が生活していたようです。
国府の東南に位置する惣山遺跡には、12棟もの倉庫が一列に並んでいたそうで、その建物の大きさは正倉院の3分の2程度で、当時の最大級の倉庫だったそうです。
これが300mもの距離を一列に並んでいたのですから、その光景は凄いものだったでしょうね。
12棟というのは、近江は12分割されていたので、それぞれに1棟をあてがったのではないか・・・と想像しているそうです。
ところで、近江国府のシンボルとして飛雲紋(流雲紋)という模様があります。
この模様の瓦が出土するのですが、
「この流雲紋の瓦は、近江国府跡(大津市三大寺・大江ほか)や、周辺部にある国府関連遺跡(堂ノ上遺跡、惣山遺跡、瀬田廃寺など)から数多く発見され ています。流雲紋の形や方向、中央に配された蓮華紋の形などから数種に分かれますが、基本的には周縁部に流雲紋を表現する点で変りありません。
しかし、この瓦は特異な分布を示しており、近江国府や周辺の国府関連遺跡、南滋賀町廃寺のほか、県内では、日置前廃寺(高島郡今津町)と東浅井郡 湖北町今西から見つかっているだけです。県外でも、平城京跡・長岡京跡・平安京跡、下野国分寺跡などあまり多くありません。しかも、そのいずれもが軒平瓦 のみで、軒丸瓦に流雲紋をもつ例は大津市域以外では、先の湖北町今西出土の一例が報告されているだけです。」(「新撰 淡海木間攫」 より引用)
と大変珍しく独特の紋様だそうです。
これは、道教の影響があると言っておられました。
また近江国府は、渡来人の技術が見られそうです。
さて、この時代背景ですが、
主人公は、藤原仲麻呂 です。
仲麻呂は、最後に藤原仲麻呂の乱を起こし死にますが、彼の死後も近江国府は10世紀まで大地震で崩壊するまで続いたそうです。
仲麻呂のプロフィールをWikipedia でざっとですが参照しますと、
彼は、藤原不比等の孫で、父は藤原南家の始祖、武智麻呂です。
「天平13年(741年)民部卿。天平15年(743年)参議に任ぜられ公卿に列する。
天平18年(746年)式部卿に転じる。式部卿は官吏の選叙・考課を握る役職であり、仲麻呂は大幅な人事異動が行って諸兄の勢力を削ぎ、自らの派閥を形成した。
仲麻呂は叔母にあたる光明皇后の信任が厚く、またこの頃は皇太子であった阿倍内親王(後の孝謙天皇)とも良好な関係にあったとされる。
天平勝宝元年(749年)聖武天皇が譲位して阿倍内親王が即位(孝謙天皇)すると、仲麻呂は参議から中納言を経ずに直接大納言に昇進。次いで、光明皇后のために設けられた紫微中台の令(長官)と、中衛大将を兼ねた。
光明皇后と孝謙天皇の信任を背景に仲麻呂は政権と軍権の両方を掌握して左大臣橘諸兄の権力を圧倒し、事実上の「光明=仲麻呂体制」が確立された。
天平宝字2年(758年)8月、孝謙天皇が譲位して大炊王が即位(淳仁天皇)する。
淳仁天皇を擁立した仲麻呂は独自な政治を行うようになり、中男・正丁の年齢繰上げや雑徭の半減、問民苦使・平準署の創設など徳治政策を進めるとともに、官名を唐風に改称させるなど唐風政策を推進した。
天平宝字4年(760年)仲麻呂は皇族以外で初めて太師(太政大臣)に任ぜられる。
同年、光明皇太后が死去した。
皇太后の信任厚かった仲麻呂にとっては大きな打撃となる。更にこの年には弟の乙麻呂も失っている。
天平宝字5年(761年)淳仁天皇と孝謙上皇を近江国の保良宮に行幸させる。唐の制度にならって保良宮を「北宮」、難波宮を「西宮」とする。」
とここで、保良宮が出てくるのです。
もう少し参照 します。
「孝謙上皇と淳仁天皇の時代の天平宝字3年(759年)11月16日、藤原氏と縁が深く(仲麻呂の祖父不比等は淡海公、父武智麻呂は近江守)仲麻呂も近江国守であったことから、近江国に保良宮の造営が開始された。
保良宮の近くにあった勢多津は東山道・北陸道方面からの物資の集積地であり、保良宮造営以前より朝廷や貴族・寺院が倉庫や別荘の形で勢多付近に施設を有していたと考えられている。
また、保良宮行幸後には民部省(仁部省)や式部省(文部省)などの官司(あるいはその出先機関)が置かれていた。
天平宝字5年(761年)
10月13日、淳仁天皇と孝謙上皇が保良宮に行幸。
10月28日、天皇は平城宮の改作のため、しばらく保良宮に移ると詔し、更に「朕思う所有り、北京を造らんと議る」と勅して、都に近い2郡(滋賀郡と栗太郡と見られる)を割いて永く畿県とし、庸を停めて平城京に準じた調を納めるようにした。これは唐の陪都「北京太原府」を意識したものとみられる。
天平宝字6年
3月25日、保良宮の諸殿と屋垣の工事を諸国に分配して一時に完成させる。
5月23日、淳仁天皇と孝謙上皇の不仲で平城宮に戻ることになり、淳仁天皇は中宮院に、孝謙上皇は出家して法華寺に入る。前年に孝謙上皇が病気に倒れ、弓削道鏡の看病を受けて平癒。2人の関係を批判した淳仁天皇と上皇が対立していた。」
天皇は平城京に戻り都は、また奈良にもどりました。さらに廃都の決定打として、
「病になった孝謙上皇は自分を看病した道鏡を側に置いて寵愛するようになった。仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙上皇に道鏡との関係を諌めさせた。
これが孝謙上皇を激怒させ、上皇は出家して尼になるとともに天皇から大事・賞罰の大権を奪うことを宣言するが、これが実現したかどうかについては研究者のあいだでも見解が分かれる。
孝謙上皇の道鏡への寵愛は更に深まり、天平宝字7年(763年)には道鏡を少僧都とした。
孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂との対立は深まり危機感を抱いた仲麻呂は、天平宝字8年(764年)自らを都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じ、さらなる軍事力の掌握を企てる。
しかし、謀反との密告もあり、淳仁天皇の保持する御璽・駅鈴を奪われるなど孝謙上皇に先手を打たれてしまい、仲麻呂は平城京を脱出する。
子の辛加知が国司を務めていた越前国に入り再起を図るが、官軍に阻まれて失敗。
仲麻呂は近江国高島郡の三尾で最後の抵抗をするが官軍に攻められて敗北する。敗れた仲麻呂は妻子と琵琶湖に舟をだしてなおも逃れようとするが、官兵石村石楯に捕らえられて斬首された。」
有名な道鏡事件の時代と伴って仲麻呂と保良宮は滅んでいくわけです。
保良宮がどこにあったのは、はっきりとわかっていません。
国分にへそ石 というのがあって、この石は使われなかった礎石だと考えられています。
他に数箇所、へそ石と同じ形の出臍の石が見つかっています。
このタイプは8世紀中~9世紀初にしか見られない時代が特定される礎石なので、保良宮に関係されたものだと特定できるようです。
また、同じタイプの瓦の出土から、おそらく石山~膳所の間に保良宮は眠っているだとろうというのが大津市の見解だそうです。
その中でもJR石山駅の南部辺りが保良宮推定地と考えられているようです。
この辺りは、僕の飲み歩く地域なので、もしかすると保良宮の跡地で一杯やっている可能性もありますね。
GWは、機会があれば現地を散策してみようかと思っています。
もし行ったらこの報告は久しぶりに古代近江ウォーカー
でアップしますね。