『たまきはる 命の雫』 感想
シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の舞台設定を、日本の”古代ヤマト”の「瑞穂国(みずほのくに)」に置き換えた作品。
原作をまともに読んだことがなく、他で舞台版を何度か観ただけなのだが、今作では話がコンパクトになっているようだ。
26年前という初演時も観ていない。
上の客席から観ると、舞台が黒っぽく見えるからか、あるいは床のバミリが目に入りやすいからか、現代創作ミュージカルなテイストに感じた。
南座ってそんなに大きくなかったから、三階から観てもそんなに遠く感じない。
最初、告知を見た時に、え?ロミオとジュリエット?、それを和物にする?
『ロミオとジュリエット』は宝塚でも上演されているし、そこまでして和物化するほどの作品なのだろうか?
しかも、再演…、他にないの?
和物になってしょぼいんじゃないの…?
と期待値を下げて臨んだが…。
すっごくよかった。
原作では、ロミオとジュリエットの二人は仮面舞踏会で出会うようだが、この作品では「歌垣」で出会う。
歌垣とは、男女が歌(和歌)を交わして関係を深める場所とのことだ。
歌は、恋愛の歌だったりすることもあって、現代でいうなら、フェスや祭りの空気感を持った合コン、あるいはマッチングイベントのようなものだろうか。
山車のような小さな舞台に乗ってジュリエットが登場。
同じく歌垣に参加している、あるいは、紛れ込んだとみられるロミオ。
登場人物はみな和装で、仮面舞踏会でつける(和柄の)マスカレードマスクを(目の部分に)つけている。
そんな場所で二人は出会い、マスクを外した瞬間、ロミオはジュリエットを見初めた。
”あなたは…誰…?”
その問いが、歌垣から月見台の場面まで、ロミオからもジュリエットからも、歌に乗せて何度もリプライズされる。
家だけでなく、自分につけられている名前さえも脱ぎ捨てた、何もまとっていない裸の自分とは一体誰なのか?
その問いが、寄せては返す波のように、観る者に優しく打ち寄せる。
ロミオのモンタギュー家、ジュリエットのキャピレット(キャピュレット)家。
二人とも、両家が対立し、いがみ合っていることは理解している。
それでも、ロミオもジュリエットも若く、柔軟かつ純真だ。
家の名前も、その家あっての自分の名前も、もう要らない——。
名前など捨ててしまおう。
私はただ私でありさえすればいい。
あなたもただあなたでありさえいてくれればいい。
などと、若く柔軟な二人は、相手の求めるものに応えるように、自然に自分を変えていく。
そんなやり取りが、まるで和歌の恋愛返歌のやり取りのように二人の間でスピーディーに繰り返され、その純粋な様子にこちらまで胸が高鳴る。
そうやって、家のしがらみを、若さをもって乗り越えていこうとする二人。
ジュリエットが13歳で、ロミオも16~18歳(15歳?)くらいだと考えられているらしいが、二人の間で、最初のゴールは結婚なんだという共通認識が瞬時にできており、トントン拍子に話が進んでいこうとするのがすごいなと思う。
そんな二人のピュアな愛がひたすら瑞々しく、眩しい。
ここのところのやり取り、原作の話の構造を理解したうえで、今作でもきちんと再配置されているようだ。
そんな二人の関係を絶妙に、そして、強力に、可愛さ全開で盛りたててくれるのが、唯城さんが演じる、ジュリエットの召使い、マリアだ。
少女漫画さながらに、アワアワと慌てふためきながら、コミカルな大きなリアクションで舞台を駆け回る。
ジュリエットの相手が、敵の家のロミオであることに驚愕するが、お嬢様ジュリエットの幸せのためならと一肌脱ぐのか、僧のロレンスに結婚式を挙げてくれと奔走する。
ロミオとジュリエットが、純真ながらもぎこちなくイチャイチャするのだが、その惚気に煽られながらも、キューピッドよろしく二人のドキドキキュンキュンな幸せ空間を、おそらく戸惑いながらも、陰ながら一生懸命盛り上げようとする。
この二人、若い愛でいっぱいなだけでなく、この作品は和物なので、教会のステンドグラスではなく、屏風の前に立つ僧ロレンスを前にして真摯に跪く、敬虔さも持ち合わせているところが更にピュアに輪をかけている。
そんな二人の結婚式が、演出上、一番下手の一角で行われているかたちなのだが、舞台端とはいえど、ロミオ、ジュリエット、マリア、ロレンスが作り上げる幸せの空間は温かいオーラを放っており、まさに、ここがこの『ロミオとジュリエット』という悲劇を描く作品の、幸せの絶頂の場面となる。
「誓いのキスを」と促された時、ロミオとジュリエットがいったん二人で抱きしめ合ってからするのがエモ過ぎる。
愛を確かめ合ったのだろう。
序盤、二人のそんな、胸が熱くなるような情景が展開され、これだけでも観に来た甲斐があったと思わせてくれる。
この辺りは、上の席から観た方がよく見えていいかもしれない。
この場面、他にも書ききれないくらい色々あったと思うが、幸せいっぱいの二人と、それを支えるマリアによる、ハートフルな愛情表現がたくさん仕込まれているのがたまらない。
ロレンスとマリアの力添えあってのことだが、両想いの二人が、純粋な愛情と情熱という、”若さ”の一言でとんとんと結婚まで進み、家と家を超えて結ばれようとする二人の姿を描くこの場面は、神聖さを感じる崇高な曲調の音楽と相まって、ちょっと涙ぐみすらする。
何だか、自分の持ち合わせていない、というか自分のなしえなかった…、未熟かもしれないが、純粋な若さというものを見せつけられて、劣等感やら羨望の感情が芽生えるかもしれない。
あんな二人になってみたかったな、と。
今回、持ち前のポテンシャルを爆発させていた、唯城さん演じるマリアには功労賞を贈りたい。
ロミオとジュリエットの愛の世界を全身全力で盛りたてた姿が輝いていた。
さて、”あなたは…誰…?”という問いを持っている者が、二人とは別にもう一人いた。
いや、もはや重圧として抱えている者が。
原作では書かれていないようだが、マキューシオの、ロミオへの特別な思い…。
ロミオとジュリエットの関係が深まっていくのを目の当たりにして、一人苦悩する男…。
そのことに気付き、理解を示す、ベンボリオ(ベンヴォーリオ)。
ベンボリオは、原作では男性なのだが、この作品では、女性として描かれている。
「それも愛」…。
それに気付き、マキューシオに寄り添おうとするベンボリオは、先進性のある人物。
モンタギュー家側の、”良心”といってもいいだろう。
そんな、もう一つの”愛”が、この物語に複雑さと深みをもたらす。
ロミオがティボルトを殺してしまった後に、原作では描かれている、ロミオがジュリエットのもとを訪れる場面がカットされているようだ。
そうすると、ジュリエットが、ロミオと会うことなく、その話を聞いただけで、一人泣いている格好になっているのだが、二人が会ってその時の心境をぶつけ合うというくだりはあってもいい気がするが、そうすると尺が長くなってしまうか。
原作では、ロレンスが他の神父に託した、薬のからくりが書かれた手紙が、その神父が、疫病(ペスト)の煽りを受けて届けにいけなくなり、手紙が届かなかったという風に書かれているようだが、今作では、ともに死んでしまったティボルトとマキューシオが亡霊になって、他の亡霊たちとともに、その手紙が届くのを阻害するという風に描かれている。
ティボルトもマキューシオも、それぞれの思惑から、ロミオとジュリエットの愛が成就するのを妨げようとしていると思われるが、妨げようとしながらも、良心の呵責に苛まれるのか、苦悩や悲しみの表情が次々と入り混じるのを見て取れるのも注目どころ。
ただ、いくつか気になる点もあった。
ロミオが墓で飲み干す毒薬をどこで手に入れたのか、また、ジュリエットの死を誰から聞いたのかというくだりが、記憶違いかもしれないが、カットされていたような気がして、少し分かりづらかった印象がある。
原作ではこの辺りも描写されているようなので、コンパクト化に伴う整理なのかもしれない。
もしそれらがなかったのなら、ロミオが”ジュリエットの死”を聞いて、”ジュリエットが死んだ…自分も死ぬ!”→毒を手に入れる…、という強烈な動機付けのくだりがあった方がわかりやすかったかもしれない。
あと、原作では、墓でロミオとパリスが決闘して、ロミオがパリスを殺す場面があるようだが、これもカットされているようだ。
ロミオの死に気づいた時の、ジュリエットの、迫真の泣きの演技には熱がこもっていた。
マリアの泣きの演技もそうだ。
このあたり、この作品のこだわりだったのだろう。
そして、エンディングフィナーレ、ミュージカルのお決まり通り、天上界(「天空」)でロミオとジュリエットの二人は再び出会い、結ばれ、笑顔でデュエットダンスをして、幕。
話はわかりやすかったし、演技が細部にまでこだわってなされていることがわかる。
マキューシオが刺された後のもんどり打つような崩れ方とか、ロミオに後ろから抱きかかえられての介抱のされ方とか。
ロミオが毒を飲んだ時の反応とか。
舞台上に落ちたナイフの音からも、ナイフの重みが伝わってきたし(上から見た時だけ)。
その他色々…。
一点だけ挙げるなら、華月さんにはもう少し見せ場が欲しかった。
原作構造的にも、キャピレット父は感情の振れ幅が大きく、かなり“オイシイ役”だと思われるので、そちらでも観てみたかった気もする。
近年、OSKで不足していたラブストーリーが久々に見られた気がして満足している。
今回の作品は、時間を拡大し、描かれなかった部分まで含めたボリュームアップ版として、ぜひもう一度観てみたい。
『Silenphony』 感想
サイレンス=無音、静寂、沈黙と、シンフォニー=交響曲を掛け合わせたショー作品。
全編無音とか、そんなわけないだろう…と、無音を題材にレビューやショーが成立するだろうかと訝しんだが…。
まずは音楽も歌もない、無音のコンテンポラリーダンスから始まる「Silence」。
衣装の布の擦れる音、身体の動きが生む音だけが響く。
なるほど、そう来たか。
この無音はどこまで続くのだろう——と思ったところで、徐々に音が入り始め、「雨」の場面へと移行する。
雨音。
ジャンプして水たまりに着地する、その瞬間の音。
大人になるとあまりしないが、誰しも一度は経験したことのある感覚だろう。
男たちはその音を、確かめるように、あるいは慈しむように、水たまりへと踏み込む。
一音一音を全身で味わうようなその動きが印象的だ。
一階席で観た際には着地音がやや大きく感じられたが、それもまた、“音の存在”を強く意識させようとしたものか。
音楽がなくとも、音は存在する。
むしろ音楽が生まれる以前から、音は確かにあった。
雨の中、水たまりを強く踏み鳴らすそのステップが、それを雄弁に語っている。
続いて、千咲さんによる薄水色のドレスのソロ「ウスバカゲロウ」。
このままプロローグは来ないのかと思わせたところで、紫色のレビュー衣装に身を包んだ全員が舞台に集結し、プロローグ「Silenphony」へ。
せり上がって登場する翼さんは、一階席から見るとまるで山の頂に立つかのようだ。
ここから一気に音楽が流れ込み、レビューらしい華やかなプロローグが展開される。
「Silenphony」のタイトル電飾も降り、蛍光管を派手にチカチカさせながら、舞台は鮮烈な光に包まれる。
ショパンの「革命のエチュード」を基調に、ベートーヴェンの「運命」のフレーズも織り込んだテーマ曲が、うねりをもって音の洪水のように劇場を満たす。
情熱的で激しく、圧すら感じるそのテーマ曲は、大地や命の鼓動を歌っているようだ。
無音から音へ、そして大音響へ——音が生まれ、成長し、爆発的に広がる過程を歌と音楽とダンスで描いた、ダイナミックなプロローグである。
プロローグの中で、初舞台生五名の紹介を兼ねたラインダンスも入り、盛り上がる。
そして音の洪水は、一気に流れ去っていった。
黒いジャケットに黄色のズボンの四人が登場する「Top Hat Mans」を挟み、舞台はインドへ。
「パクシラージ」では、ターバンの男役とサリー風衣装の娘役たちがコミカルなダンスで宮殿の世界を見せる。
ナートゥかと思いきや、ズンバズンバ♪とボリウッドズンバ風の軽快なリズムでのダンス。
魔法の絨毯を持ってきた髭(ヒゲ)の翼さん。
パクシラージ=”鳥の王”とはこの髭の男のことか。
娘役が波打たせる魔法の絨毯の上に乗って、ちょっと空を飛んでいるみたい。
髭が濃くて、最初、翼さんか誰かわからなかった。
ここで一度目の客席降り。
通路に皆が並び、一斉に外を向いて、内を向いてと踊ってくれて、満面のスマイルを見せてくれる。
翼さんと千咲さんは花道の上からそんな盛り上がる客席を見渡し…。
観客との距離が一気に縮まる、楽しいひととき。
続く「月と墨」は一転して和の世界へ。
月夜に尺八が響き、白い半紙に黒い墨を打ちつけるような、幽玄の美を感じさせる空間が広がる。
月の静けさや輝きにも音があるように感じられるし、静寂の中、墨で字を書くときにも音が出るよなーとか、そんなことをいろいろ考えさせられる。
が、この場面、幽霊やらゾンビっぽい怪しさもまとう、スリラーや妖怪ダンス(「ようかい体操第一」)を思わせるようなキレの良いダンスが、ゲームで流れるようなピコピコ電子音の音楽とともに繰り広げられる。
その次の「Life Silence」では、秋の気配を感じさせるベンチのある空間へ。
落ち葉はないけれど、秋の公園にベンチが三つ置かれているような空間。
暖かいベージュ系の衣装に包まれたダンサーたちが、ベンチも使って、再びコンテンポラリー的なダンスを見せる。
何を表しているんだろうか。
落ち葉のダンス?秋の喜び?
自然の中の“音のない世界”を思わせつつも、落ち葉の音さえもまた音楽なのだと気付かされる。
引き続いて、「記」と題された桐生さんのソロの場面。
ここでも落ち着いた色のスーツを着て、桐生さんが、大切な人に向けた思いを手紙にしたためる、その心を歌う。
手紙を書くときって、普通音楽かけないよね…。
静かな環境で紙に、自分の心に向き合い、そして、字を書く音だけが聞こえる…。
心の鼓動と共に。
そんな情景の浮かぶ、静かだけれど温かな情感のこもったシーン。
次は、花道に現れた黄色いドレスの四人のTop Top Girlsが明るく歌い踊り、ショーの序盤で出てきた四人のTop Hat Mansが再び登場してタップを披露した後に、「Spanish Symphony」へ。
フラメンコで使う扇子、アバニコのセット。
フラメンコのスカートさばき、ステップ、扇子を広げたり閉じたりする音、手拍子…。
情熱的な音楽が奏でられるときもあれば、身体表現だけのときもあるだろう。
フラメンコにも多様な音があるのだと改めて思い起こさせる。
OSKの、伝統的に暗いスパニッシュではなく、昨年の「春のおどり」に続く、明るく、エネルギッシュなスパニッシュシーン。
二度目の客席降りもおこなわれ、場内は再び大きく盛り上がる。
いよいよフィナーレへ。
「想」という場面タイトルで千咲さんが、いままでの人生の中で積み重ね、刻んできた時間の“音”を想い歌う。
そこから、翼さんとのデュエットダンスへと続き、ラストは、千咲さんが翼さんに抱きかかえられるように横たわって静かに幕を閉じる。
命を刻む音を表しているかのようだ。
パレード。
エトワール登堂さんとトリの翼さん以外、歌唱無し。
その間、劇場全体に響く観客の拍手だけが、熱く強く際立つ。
ここでは、観客の拍手の音が主役なのだと、そう感じた。
サイレンス…。
人間が存在する前から自然はあり、自然界には音が存在している。
静寂はあっても、完全な無音というものはなくて。
雨音や水たまりの音、落ち葉の音など、我々が気づかなくなっているだけで、自然由来の音は変わらず存在する。
また、人間が動けば、身体の動きだけで音は生まれる。
大地の鼓動、命の鼓動…。
地球が動き、人間が存在する限り、完全な無音というものは存在しない。
静寂から音が一つ生まれ、その一つ一つの音が集まり、人間の手によって音楽が生まれ、音が合わさり、重なり、積み上がることでダイナミックな交響曲となって、音はうねり、洪水のように押し寄せるまでになり、やがて消えていく。
そんな、音の誕生から成長、爆発、終わりまでの”音の一生”を描いたようなショー作品…かな。
——そんな想いが、『Silenphony』というタイトルに込められている気がする。
ダンサー出身の演出家らしく、いろんなダンサーの力も集めて、多様なダンス表現が凝縮されている点も見応えのある作品。
5月4日には千咲さんの来年退団が発表された。
前トップの楊さんのときからダブルで娘役トップスターの一人としてOSKを支え、翼さんと単独トップコンビを組んでからも、翼さんを支え、共にOSKを引っ張ってきた。
その歩みを思うと感慨深い。
残された時間を、最後まで駆け抜けてほしい。
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