萩尾望都氏の漫画が原作。

2018年に花組で初演され、今回、雪組での再演となった。

初演時も、話も世界観もあまりよくわからなかった。
エドガーのカラーコンタクトのことは覚えている。
思い返すと、この作品で初めて鳳月杏さんを認識した。

そして今回も、初見では相変わらずよくわからなかった。
観ている最中から疑問点に足を取られる。
そこで思い切って、次に観る前にネットで事前学習してみたところ、「何がわからなかったのか」がかなり整理できた。

調べてみると、原作は思っていた以上に話が深い。
しかし、宝塚版では物語の根本的な部分について説明されていないことが多く、なおかつ、かなり話が圧縮されているように思う。
だから、原作の漫画か、少なくともネットなどで詳しいあらすじや世界観を頭に入れておかなければ、いきなり舞台を観てもよくわからないのだ、ということに気付いた。
芝居やミュージカルには、舞台を観るだけで楽しめるものと、ある程度の予習をしておいた方が理解しやすいものとがあると思うのだが、今作は後者だろう。
作品をまったく知らずに舞台を観ただけで、この物語を十分に理解するのは難しいと思うのだが……。
むしろ前もって原作を知ったうえで、その原作の世界観――特にビジュアル――が、宝塚の舞台でどのような形になっているのかを楽しむ。
それが、この宝塚版をより楽しめる見方のような気もする。
そうでなければ、「?」ばかりが生じて作品世界に入り込めず、“宝塚での3次元ビジュアル化!”という一番おいしい部分を存分に楽しむところまで至らないまま、劇場を後にすることになってしまうのではないか。

宝塚版は、大きく前半と後半に分けて考えると理解しやすい。
前半では、エドガーとメリーベルの兄妹と、ポーツネル男爵夫妻であるフランクとシーラがバンパネラの村(館)で関わりを持ち始め、やがて四人が家族として行動するようになる。
そして長い年月を経て、約120年後、四人はホテル・ブラックプールに現れる。
後半では、アランという少年が新たに登場し、メリーベルやシーラの消滅など、ホテル内外で起こるさまざまな出来事を経て、最終的にエドガーとアランが二人で新たな旅を始める。
そのうえで、ストーリーテラーたちが生きる後世の時代が、この構造の最初と最後をさらに挟む形になっている。

まず、この構造を理解していないと、バンパネラの「永遠の時を生きる」というキャッチフレーズも相まって、物語中、時代があっちこっちに、しかも行ったり来たりしているように見えて、よくわからなくなる。
実際には、エドガーたちの時間は基本的に前へ進んでいる。

劇中では明確な説明がなかったと思うのだが、館を出てからホテル・ブラックプールに現れるまでには、およそ120年という歳月が流れている。
このことも、物語をよりよく理解するためには知っておきたい。
そしてアランが物語の後半になって本格的に登場する人物だということも、あらためて理解した。

劇中で説明を増やせば、作品の世界観が壊れてしまうだろうか。
であるなら、このスタイルもいいのかもしれない。
もう少し説明を増やした方がいいのか、このスタイルがいいのか。
どちらがいいのかはわからない。
いずれにせよ、自分の場合、「事前学習が必要だった」というところに帰ってくる。

ネットにあった“年表”というものを見たのだが、この物語、なかなか大河ドラマ的に壮大なストーリーだ。
時系列でまとめた解説年表をプログラムに載せても、観客の理解の助けになるかもしれない。

さて、そんな「事前学習なしでは話や世界観がよくわからなかった人」が、一体どういうところを疑問に思ったのか、大まかに挙げてみた。
そして、それらについて事前学習と事後学習から理解したことを、少し記してみた。
自分の場合、このくらいは知っておかないと、舞台をスムーズに理解するのは難しかった。

① エドガー、メリーベル、フランク、シーラの四人は、なぜ一緒に旅をしているのか
四人の関係性と、その目的。
また、その旅は、なぜ時を超え、時代を超えているのか。
同じく、エドガーとアランの二人も、何のために時代を超えて一緒に旅をするのか。
そもそも、バンパネラが人間を一族に加える目的とは何なのか。

→
四人はバンパネラであり、人間社会では義理の家族として暮らしている。
バンパネラは、一般的な吸血鬼(ヴァンパイア)と似た性質を持つ存在で、人間の血や生気(エナジー)、また薔薇のエッセンスなどを糧として生きる。
一方で、バンパネラから人間へ血やエナジーを送り込むなどして、その人間をバンパネラに変え、一族に加えることもできる。
ただし、人間なら誰でもいいわけではない。
彼らは人間の中から一族に加えるにふさわしい者を選び、新しい仲間として迎える。

そして、バンパネラは歳をとらない。
バンパネラになった時の姿のまま、永遠ともいえる長い時を生きることになる。
しかし、そうすると不都合が出てくる。
歳をとらないということは、何百年生きようと「見た目が変わらない」ということだ。
同じ場所にずっと住み続ければ、周囲の人間は歳をとっていくのに、彼らだけは歳をとらず、姿が変わらないという極めて奇異なことが起こる。
14歳くらいに見える少年・少女が、10年経っても20年経っても同じ姿をしていたら、「この一家はおかしい」と人間に気付かれてしまう。
だから、同じ場所に長期間住み続けることができない。
一定期間、人間社会の中で暮らしては姿を消し、別の土地へ移り、また新しい身分で暮らす……ということを繰り返していく。
後世の人間から見れば、同じ姿の人物が100年前にも200年前にも記録に残り、時代を超えて各地に“現れた”ように見える。
最初、自分は誤解していたのだが、「時を超え、時空を超え……」といっても、バンパネラはなにもタイムマシーンに乗って時代を行き来するようなタイムトラベルをしているわけではない。
「永遠の時を生きる」。
つまり、彼らは歳をとらないが、時間だけは普通に流れていく。
通常の人間なら一生が終わるところを、バンパネラはそのまま生き続ける。
だから彼らは18世紀を生き、19世紀を生き、20世紀を生きる。
……ということなのだ。

なお、バンパネラは老いることなく長い時を生きるが、不死身というわけではない。
銀の弾丸で撃たれるなどして致命傷を負ったり、銀でなくても杭やピッチフォークで胸を貫かれるなど致命的な損傷を受けたりすれば、“死ぬ”というより「消滅する」。

② エドガーは、なぜフランクとシーラ夫妻の養子になるのか
そのいきさつは何なのか。
また、いつからなのか。
エドガーは話の途中から、フランクとシーラのことを「父」「母」と呼んでいた気がする。
プログラムには「義両親となった」とあるが、これはどういう意味なのか。

→
①で義理の家族と書いた通り、エドガー、メリーベル、フランク、シーラの四人は、人間社会では一つの家族として暮らしている。
フランクが父、シーラが母。
エドガーが養子、メリーベルが養女という形である。

エドガーは、シーラをバンパネラにする儀式を館で目撃し、一族の秘密を知ってしまう。
秘密を知った以上、そのまま人間として生かしておくわけにはいかない。
殺すべきだという意見も出るが、老ハンナの取りなしによって、将来、一族に加わることを条件に生かされることになる。
その後、村人に正体が露見して館が襲われ、老ハンナが消滅する。
本来はもっと成長してから一族に加わるはずだったエドガーは、14歳のとき、大老(キング)ポーによって予定より早くバンパネラにされる。
そして、その後エドガーはポーツネル夫妻の養子となる。
ただし、「誰がそう決めたのか」「フランクとシーラが自ら引き取ることを申し出たのか」「大老ポーや一族が決めたのか」といった詳しい経緯までは、舞台からはわからなかったし、原作で明確に描かれていたかどうかもわからない。

14歳の姿のままのエドガーが、人間社会で一人で暮らし続けるのは難しい。
そう考えると、フランクとシーラを両親、エドガーを息子とする家族の形をとったことには、人間社会で暮らすうえでの現実的な意味もあったのだろう。
人間社会で、「この人はフランク・ポーツネル男爵です。こちらはシーラ夫人です。そして僕は正体不明の14歳の吸血鬼ですw」では困るのだ。

ただ、単なる“偽装家族”でしかなかったとは言い切れないのかもしれない。
最初は人間社会で生きるための便宜的な家族関係という面があったとしても、彼らはその後、100年以上をともに生きることになる。
長い年月の中で、本当の意味で一つの家族になっていった、と見ることもできるのかもしれない。
なお、メリーベルがポーツネル夫妻の養女として家族に加わる、その具体的な経緯も、舞台を観ただけではよくわからなかった。

ところで、エドガーは人間だったころ、シーラに淡い恋心を抱いていた。
そのシーラがバンパネラとなり、しかも義理とはいえ自分の母親となって、一緒に家族として永遠ともいえる時を生きていく。
そんなエドガーの複雑であろう心境も、この作品の見どころなのかもしれない。

③ エドガーとメリーベルは、もともと人間だったのか
それとも、最初からバンパネラだったのか。

そして、エドガーはなぜバンパネラになったのか。
メリーベルも、なぜバンパネラになったのか。

→
エドガーとメリーベルは、もともと人間だった。
シーラも、もともとは人間。
エドガーは大老ポーによってバンパネラにされる。
メリーベルは、バンパネラとなったエドガーによって一族に引き入れられる。
シーラは、愛するフランクと結婚し、ともに生きるため、自ら望んでバンパネラになった。

②で書いた通り、エドガー自身は、もともとバンパネラになりたかったわけではない。
一族の秘密を知ってしまったことで、将来一族に加わることになり、館が襲撃された際、14歳のまま大老ポーによって予定より早く一族に加えられた。

一方、メリーベルは兄エドガーとともに生きるため、自らバンパネラになる道を選んだ。
もともとエドガーは、メリーベルをバンパネラにしたくなかった。
だからこそ、メリーベルをバンパネラたちから遠ざけていた。

シーラはそれとは対照的で、愛するフランクと結婚し、永遠にともに生きるため、自分から望んでバンパネラになった。
また、フランクは物語に登場した時点ですでにバンパネラである。
フランクがいつ、どのようにバンパネラになったのか、生まれたときからそうだったのかについては、原作でも明確には描かれていないようだ。

④ エドガーとメリーベルの、強すぎるとも思える兄妹愛はどこから来ているのか
「メリーベルを守る」というが、何から守るのか。
また、なぜそこまで守ろうとするのか。

→
一番よくわからなかったところかもしれない。
エドガーとメリーベルはエヴァンズ伯爵の血を引く兄妹だが、伯爵と正妻との子ではなく、伯爵と愛人メリーウェザーとの間に生まれた子供である。
そのメリーウェザーは、メリーベルを産んですぐに亡くなった。
二人は正妻に疎まれ、森に捨てられ、殺されかける。
エドガーとメリーベルにとって、血のつながった身近な家族は、お互いしかいないといってもいいような状況だった。
エドガーはまだ4歳だったが、赤ん坊の妹を守ろうとする。
そしてメリーベルも、唯一の兄を強く慕うようになる。
エドガーにとってメリーベルは、単に「かわいい妹」というだけではなく、自分が守らなければならない存在だった。
どうも、このあたりが二人の強い兄妹愛の根っこにあるようだ。

二人は森で老ハンナに拾われ、育てられる。
やがてエドガーは一族の秘密を知ってしまい、自分が将来バンパネラになる運命から逃れられなくなる。

しかし、最愛の妹まで同じ運命に巻き込みたくなかった。
そこで、まだ幼いメリーベルを一族から遠ざけ、アート男爵家の養女に出す。
自分はもう逃れられない。
だから、せめてメリーベルだけは人間として生きてほしい――。
そう考えた、ということのようだ。

その後メリーベルは、アート男爵家の養女となり、さらにエヴァンズ家との関わりを経てエドガーと再会する。
そして今度はメリーベル自身が、兄とともに生きる道を選び、バンパネラになる。
「人間として兄と別れるより、バンパネラとして兄と永遠に生きる」。
そういう選択だったということか。

⑤ エドガーとメリーベルの実の親は、なぜ二人を捨てたのか
最初、自分は、二人を捨てに来た馭者とイルリー乳母が実の両親なのかと思った。
この二人が何者なのかも、よくわからなかった。
馭者は、なぜ赤ん坊のメリーベルを殺そうとしたのか。
馭者とイルリー乳母との会話の中に説明的な台詞があったのかもしれないが、聞き逃したかもしれない。

→
いきさつは④で触れた通り。
馭者とイルリー乳母は、二人の実の両親ではない。
実父はエヴァンズ伯爵、実母はその愛人メリーウェザー。
メリーウェザーの死後、エヴァンズ伯爵はエドガーとメリーベルを引き取ろうとするが、それを快く思わない正妻によって、二人は排除されることになる。
つまり、「実の両親が二人を捨てた」というより、父の正妻によって捨てられた、という方が正確なようだ。

⑥ エドガーは、なぜバンパネラになることを嫌ったのか


→
エドガーは、自分から望んでバンパネラになったわけではなかった。
ここまでは、舞台からもだいたいわかる。
原作の、宝塚版で描かれている時代より後の作品では、エドガーが「人間に戻りたい」という思いを持っていることが描かれているようだ。
今回の宝塚版では、歌詞の中で「人間に戻りたい」という思いに触れられていることに後で気付いたが、物語の中で大きく展開されているわけではないと思うし、少なくとも自分は観劇中には認識できなかった。
このエドガーの思いに気付けていたら、また違った人物像として自分の目に映っていたかもしれない。

14歳の身体から永久に成長できない。
周囲の人間は成長し、老い、死んでいく。
自分は人間社会に完全には属することができない。
正体を隠し続けなければならない。
本当は、普通の人間として人生を全うしたかった――エドガーは、そんな思いを抱えていたのだろうか。
そう考えると、自分はその運命から逃れられなくても、せめてメリーベルだけは同じ運命から逃がそうとした、その気持ちもより理解できそうだ。

……その他にも、「アランの父と、幼いころの婚約者は、なぜ一緒に港の事故で亡くなったのか」という疑問があったのだが、これは原作でも詳細までは描かれていないようだ。
また、エヴァンズ家のオズワルドとユーシスあたりの血縁関係も、腹違いの何……とか、なかなかややこしく、理解に手間取った。
それと、エヴァンズ家の血を引くメリーベルが、後にエヴァンズ家の「養女」になるというのも、最初は意味がわからなかった。
これは、血縁上はエヴァンズ伯爵の実の娘であっても、社会的・身分上はエヴァンズ家の娘として育てられていなかったため、改めて「養女」という形で家に迎えられた、ということのようだ。

しかしエヴァンズ伯爵。
養女となって戻ってきたメリーベルが、かつてのあの赤ん坊だと気付いていたなら、物語はどうなっていただろうか。


さて、舞台。

エドガー朝美さん。
実力十分。
歌声がよく届く。

メリーベル音彩さん。
メリーベルの「はかなさ」がよく表れていた。
フィナーレの、兄妹という形でのデュエットダンスもおもしろい。
いや、フィナーレだから、そこは昇華して、空想の大人の男女のデュエットダンスなのか。
通常のヒロインがいないイレギュラーな作品だけれど、どちらともとれそうなのも宝塚のおもしろいところ。

フランク瀬央さん。
瀬央さんはフランクと一体化していて、舞台上には「瀬央さん」ではなく、フランクという人物そのものがいたように見えた。
そして、公演ごとに歌が上手くなっている。
今回は、過去一のはまり役だったのではないか。
舞台の中心を担う実力も十分にあると思った。

シーラ小桜さん。
バンパネラであるフランクを愛し、自ら望んでバンパネラとなるという数奇な女性を、バンパネラとなってからのどこか浮遊感のある雰囲気もまといながら、最後まで演じ切っていたと思う。
シーラが歌う「永遠の愛」にハマった。
高揚感だけでなく、開放感をあわせ持つようなメロディー。
男爵への愛を誓い、一族となることへの決意を情感を込めて歌うこの曲は、まるで厚い雲が切れ、そこから太陽の光が降り注ぎ、大空を舞うかのような情景を思わせてくれた。
序盤にして、なんだかちょっと涙ぐんでしまった。
この後、シーラは、フランクが「不幸」と呼ぶように、バンパネラとして生きるうえでの苦難に向き合うことになる。
しかし、この場にいた誰が、その未来を想像できただろうか……。
嵐の前ではあるけれど、幸福感に満たされたシーラたちの、幸せで温かなひとときが尊い。
こちらまで幸せの空気に包まれるようだった。
この曲と歌を聴くだけでも、観に来た甲斐があったと思った。

フランクが口にした、バンパネラになることの「不幸」とは何だったのだろう。
人間として普通に年をとり、普通に人生を終える可能性を失う。
人間社会に正体を隠し続けなければならない。
人間から血やエナジーを得なければならない。
住む場所を転々としなければならない。
正体を知られれば命を狙われる。
そして実際、正体を見破られたことで、シーラもメリーベルも消滅することになる。

原作では、シーラが消滅した後、後を追うようにフランクも消滅する。
永遠ともいえる時を生きられるバンパネラでありながら、愛するシーラを失ってまで永遠を生きることを、フランクは選ばなかったのだろうか。
バンパネラも誰かを愛する、という話なのか。
それとも、バンパネラも人間と変わらない心を持っている、ということなのか。
永遠は、幸か、不幸か。
フランクの、このあたりの心情も、もう少し詳しく見てみたかったかもしれない。

ブラヴァツキー美穂さん。
これで退団。
あの歌声が聴けなくなるのは寂しい。
少し遡るが、『Santé!!』でシンガーとして星条さんと双璧をなし、作品を強力に固めていた。
あのショーのラインナップは最強だった。

フィナーレ。
老ハンナが男役に戻り、シーラも普通に踊っていたのが、何だかうれしい。
小桜さん、どこかの組に組子として戻らないのだろうか。

今回、マイクを通した台詞はよく聞こえていた。
歌の歌詞も、「聞き取れない」と不満を感じるほどではなかった気がする。