人と接する時期。 | ジブン探検中。

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どう感じたか、どう思ったか、
書いて忘れていくブログ。

集中して自分で自分とやりとりをして、どう思っているのか、などなどを追い続けてきた。
五年くらいか。
そろそろ自分だけではなかなか開かない扉と対峙する準備ができたような気がしている。


雑多にある自分の中のあれこれ、大概は自分でよいしょと扉ないし蓋を開けて都度確認することができていた。
が、最近は何もないぞ、と思うことが増えていた。
やっと穏やかなライフに近づけたのかしら。
うふふふふ。
などと思っていた。
し、実際に毎日穏やかでいい感じだった。


が、私の心の扉が自分だけではわからないレベルのものが大半になってきた、ということなのではないかと気がついた。
そう判断したのはここ数日、テレビを見たとき、情報に触れた時の自分の反応に昔のような過敏さを感じたからだ。
自分以外の何者かの言動に踊らされているがのごとく、反応しまくっている自分に気づいたということだ。


それらは概ねいい気持ちにさせてくれるものではない。
うんざりする、憂鬱になる、そんなことばかりだ。
そうじゃない情報ももちろんあるけど、大抵感動したな、と片付けがちなので、自分の中に蓄積されていっている感覚が少ない。


ということは、こうも言い換えられる。


他者との関わり、やりとりは概ねいい気持ちにさせてくれるものではない。
うんざりし、憂鬱になる。
人間出したものが返ってくる、とかいうのを信じれば、私は常に人をうんざりさせて、憂鬱にさせてきた、とも言える。
なるほど、私、ひどいな。


自分で書いてて、嫌になってきたが(笑)
今日もまたうんざりの扉が開いた。
具体的に何にうんざりしたのか、追跡している真っ最中だ。


きっかけは友人とのやりとりだ。

愚痴、というか、悩みを聞いていた。
(先日会った友人とは別人。彼女の愚痴も悩みも聞いていて苦痛を感じたことはほぼない。)
私が疑問形で聞いたのに、答えが返ってこないどころか、脈絡もない話の一部分が返ってくる。
ということは、私の理解力の問題なのか、相手が盲目的になり過ぎているのか、どちらかなのだ。
そこで私に理解力がないと判断。
手をかけて申し訳ないがもう少しわかりやすくして、とお願いするが、それも返答がない。
そして部分的な心情吐露。
変化がない。


ということは、相手の問題なのだろう。
盲目的で後付けの情報で言い訳され続けている。
相手の主題は、パートナーに嘘をつかれて困る、というもの。
このやりとりをしていると、嘘じゃないものまで嘘扱いされてそうだな、と私は思った。
と、同時に、なんで私、気を使いまくって相手をしているのか甚だ疑問に思った。


話を聞いてもらえれば満足するだろうと思って聞いていると、アドバイスを求めてくる。
それに対して正論を伝えると、それはキツイよー。と返ってくる。
私にどうしろというのだ。
仲良しの占い師にでも金払って見てもらえばいいのに。(そういう人だ、残念ながら)


そんな不毛な時間を腹のなかに閉じ込めて、テレビをつけ、ネット見て、気がついたら、私のうんざり憂鬱の扉は開かれてしまった。
今はうんざり憂鬱の根っこ探しに忙しい。
さっさと処理して気分良くなりたいからだ。
見過ごしてやり過ごしてまたうんざり憂鬱はまっぴらごめんだからだ。


人と接することで開かれる扉、人によっては昔の感情やらインナーチャイルドがどうとか、古傷とかいうのだろうけど、そういう類のアレは、自分以外は気づくことができない。
無理やり引きずり出すものでも、捏造するかのごとくオープンにするものでもない。
まず、自覚しないといけない。
自己開示が必要だ、と言われたからと言って、引きずり出して、オープンにした途端、アメブロという魑魅魍魎が蔓延る世界ではカモとしてターゲッティングされる。
(それをあぶり出して、面白がるのもまた一興だけど)
若干、カモである自分の自意識過剰だという部分も否めないのであまり言及しない。


書いていてあっちこっちに話が飛んだが、私が言いたいのは、今、私はうんざりして、憂鬱なんだ、ということだ。
裸婦を拝んで事なきを得ることを選択せず、うんざり憂鬱にどっぷり浸って、根っこを探してやることを選択した、ということだ。
カモのこともうんざりだし、意思疎通が出来ない同じ国に生まれ、同じ言語を操る存在にもうんざりだし、センシティブな話題に食いついてセンセーショナルに煽るマスメディアもうんざりなんだ。


しんどいなぁ。
(という具合に自分がキツイと思うことを嫌々ながらも選択して対処しているので友人のキツイ発言はイラっとしたよね、うん)