嵐は続くよ。
歯が痛い!
わたしは麻酔なしで治療できる勇者ではない。
麻酔をしていても、治療翌日に痛みがあるなんて、
このところ味わっていなかったことだ。
痛みを我慢していないで、
さっさと鎮痛剤のお世話になってしまおうと思う。
ぐびぐびごっくん。
悲劇のヒロインは楽しい。
これは、変わらない。
体感したことだから、というのもあるけど。
わたしは、それを許していなかった。
許していないから、見ていると、モヤモヤした。
楽しいのだから、自分が望んでいるのだから、と
線を引いた。
その線引きは、
今まで平気で楽しんでいたことに
違和感を感じたのがきっかけだった。
やってることは変わらないのに、
漠然とモヤっとした。
半年以上、そのモヤモヤをごまかしながら、
やり過ごしていた。
どこかに着地しようと何度も何度も
ゲロノートに書き出した。
人に相談したりもした。
けど、いつまでたってもスッキリしなかった。
それどころか、モヤモヤは蓄積されていった。
誰かが悪いわけでもなんでもないのに。
わたしが楽しめない、取り組めないことが
いけないのではないか。
ちょっとしたことで、
ああ、わたしが悪いんだ、と、わたしは悪くないの間を
行ったり来たりした。
いつしか、それは自分を責めるための道具になった。
そこまで時間をかけてしがみつく必要があるのか、
とも思った。
でも、そういうことでもないというのは、
なんとなく思っていた。
いいことも、悪いことにもレスポンスがある。
それをわたしが受け止めきれなくなった。
黙り込むようになった。
そして、このブログに吐き出すかのごとく
文章を書くようになった。
もっと大きな理由はあるけども。
相乗効果はあったと思う。
おととい、なんとはなしに、
何度も試みたゲロノートに書き出す作業を
やってみた。
誰も見ることがないであろうノートに
書くのだから、みっともなくても、
悪意にまみれていても、情けなくてもいい。
いつもそう思って書いているつもりだったけど、
今回は違ったらしい。
わたしは、
悲劇のヒロインでいること。
ネガティブであること。
何度も失敗すること。
感情の爆弾を落とすこと。
否認すること。
勘違いすること。
周りが見えないこと。
傷を舐め合うこと。
自分本位になること。
非力な自分をアピールすること。
自分を責める形で身を守ること。
被害者でいること。
狭量であること。
などなどなどなど。
わたしはこれらを自分に禁止していた。
禁止しているとは思っていなかったことが、
わたしの中で禁則事項だった。
意識して禁止していたのもあるし、
それが禁止されたきっかけも覚えているものもある。
客観的に見たら、うわーって。
そう思う。
誰かに同じことを告白されたら、
ずいぶんと息苦しい生き方をしているなぁ
と思う。
ただ、現実はわたしが息苦しかったんだ。
書けば書くほど、どうなったか。
そりゃもう、スッキリ。
ニヤニヤした。
なるほどなるほど、そういうことかー。
便秘になったことのないわたしだけど、
きっと出たときの爽快感はこんな感じだろうな、
と思う。
モヤモヤした。
羨ましかった。
それを表に出せることが羨ましくて
仕方なかった。
自分では禁止してることを、外に出せる。
それが羨ましかった。
自分では禁止していることをしても
誰にも責められたりしていない。
それが羨ましかった。
禁止してることだから、破れば、
自分を責めまくる。
母親のことも自分を責めたかったから、
被害者になった。
被害者でいることを許していないから、
結果的に自分を責められるという納得のシステム。
禁止も、責めるのも、わたしがしていることなのに。
誰かのせいにしていた。
安定感のある被害者加害者世界では、セオリー通り。
要するに、モヤモヤしたのは、
全部、そうしていたかった。
まだまだ人のせいにしたかった。
まだまだ親のせいにしたかった。
自分でケツを持ちたくなかっただけだ。
自立には程遠い。
これを甘えだ!とまた自分を責め立てるくらいなら、
存分に甘ったれていればいいと思う。
スパルタ方式で変えていく自分への自信と
甘やかしながら育てた自信とどっちがいいか。
それだけだ。
以前のわたしならスポ根万歳、スパルタ方式を
選んだと思う。
スパルタ方式でできた自信は鋼のように
強固なものだろう。
けど、案外もろく、そのスパルタに
終わりがないのではないか、と
思っている。
甘やかしながら育てた自信は、
ふにゃふにゃな自信だろうなと思う。
けど、そのふにゃふにゃは折れない。
流れ流され、抗わない自信なのだろうと
わたしは想像している。
どっちを選ぶか。
ふにゃふにゃで!