障碍ってなんだろう?
今回のブログを書くにあたり『障碍者』という言葉について調べたところ、おもしろい事実が判明したのであとでお話ししますね。
まず、今回のテーマですが、【幸せと障がい】というものになります。
最近、福祉の勉強をしている関係で、電動車いす(セニアカー)に乗る機会がありました。
(わたしは霊的世界だけに生きているわけではなく、肉体人間としてボランティアとか、介護福祉なんかの勉強もしたりしています)
たしかに、電動車いすはすわったまま指先ひとつでいきたい方向に移動できるので、らくちんです。
でも、一生それに乗って移動しつづけたいと思うほど快適か、と言われるとけっしてそんなことはありません。
自分の足が動くうちは、ふつうに歩くほうがはるかにマシだし、倍のスピードで走ったり、自由自在に移動することもできるので、セニアカーなんてむしろ不自由きわまりないと思いました。当たり前ですが。
世の中には、生きていくために車いすやつえが必要な人、ものを見るのにメガネが必要な人、音を聞くのに補聴器が必要な人、あるいは、人工呼吸器や心臓のペースメーカーなどが必要な人などさまざまです。
生まれながらに、なんらかの機械や用具の助けがなければ生活ができないという人もいるわけですが、もちろんそんな人たちが健常な人に比べて、人間的に劣っているというわけではありません。
ただ、自分からのぞんで障碍者になりたい、という人はいないでしょう。
むしろ、年をとっても道具や人の助けも必要とせず、自力で生活できる身体でいたいと思っている人が大半なのではないでしょうか。
しかし唯一『幸せでいる』ということに関しては、自ら障碍者であることを望んで、自慢にすらしている人がほとんどなのです。
なんの道具も使わず、もって生まれた身体で歩いたり走ったり、ものを見たり、聞いたり、内臓が働いてくれたりするほうがいいでしょう。
ふつうの人は、健常な身体をのぞんでいて、それを自慢にすら思っていたりするでしょう。
じつは『幸せでいる』ということもまったく同じで、幸せになるために、本来はなんの道具も必要ないんですよね。
にもかかわらずほとんどの人は、幸せになるためにはお金や高級車、豪邸、地位、名誉、趣味、娯楽、あるいは見くだす対象などが必要不可欠だと考えているんですね。
なんらかの道具を使わなければ、通常の身体機能が発揮できない人を障碍者というならば、このような人たちはまさに【幸せ障碍者】というべき人たちなのではないでしょうか。
わたしのまわりにもいろんなものを持っていることを自慢する人がいますが、わたし自身はそんなものにたよらなくても、いつも幸福感に満たされているので、うらやましくもなんともないんですね。
これは負け惜しみでもなんでもありません。
たとえば、あなたが普通にあるける人で、もしセニアカーにのっている人に
『どうだ。こんなに快適に自由に移動できるんだぞ。うらやましいだろう』
と鼻高々に自慢されたとしたらどうでしょうか。
『いや、わたしのほうが倍以上のスピードで動けるし、前後左右斜めともっと自由自在に動けるんだけどなぁ。そんなものにたよらないと移動できないなんて、むしろかわいそうですらあるんだけど』
みたいに思いませんか。
『幸せになる』ということについても、まったく同様で、ほんらいは天から与えられた生まれたままの身体だけで最高無上の幸せになることができるのです。
にもかかわらず、ほんのわずかな幸せを感じるために、多くの道具を必要とする【幸せ障碍者】とも言うべき人でこの世はあふれかえっているのが現実なのですね。
そんな障碍者がここまで多いと、人間は生まれながらにそのようなハンディキャップを背負わされているのかと思われそうですが、そんなことはありません。
生まれた直後の赤ちゃんは、なにももたずとも幸せそのものなのです。
にもかかわらず、育っていく過程で、親やまわりの人間からの影響でどんどん障碍を植えつけられていくのです。
肉体の障碍は60代、70代、80代、90代と年をとるごとにでてきますが、幸せになるための障碍は物心ついたころからどんどんと悪化させられていくのです。
怖いですね。不幸ですね。
でも、肉体の障碍とちがって、こちらのほうはいつでも何歳からでも克服が可能なのです。
克服どころか、最高に幸せな境地に達することすらできるのですからありがたいことですね。
その第一歩は、『自分は幸せ障碍者である』ということに気づくことになります。
冒頭で、『障碍者』という言葉でおもしろい事実がわかったと言いましたが、『障碍』という言葉はもともと『しょうげ』という仏教用語で、その意味は『悪霊、怨霊などがじゃますること』だということなのです。
ということは、餓鬼や修羅、畜生さながらに、幸せになるためには欲望のままにあれもこれも手にいれる必要があるんだと思いこんでいる人たちというのは、自身やそのまわりをとりまいている霊たちが悪霊、怨霊そのものなので、まさに『幸せ障碍者』という言葉がぴったりと当てはまるんですね。
奇遇ですね。
というわけで、もし思いい当たる方は障碍の克服を一緒に目指しましょう。