人は死んだらどうなるのでしょう
か?
『そんなの、燃やして骨だけに
なって、あとかたもなく消えて
しまうだけに決まってるじゃ
ないか』
と思っている方が大半でしょう。
本当にそうだったら、人生
とてつもなく楽ですね。
だって、人間も含めてすべて
がただのモノなのであれば、
だれになにを遠慮することも
なく、好き勝手なことを
やりたい放題やって死んで
いけばいいわけですから。
実際そんな思いで生きている
人もおおいようですが、
はたして、そんなに甘いもの
でしょうか。
神のエネルギーとちがって、
あの世の存在は客観的に感知
してもらって証明することは
できないので、ここで死後の
世界があると断言はしません。
ただ、死後の世界は信じてい
なくても、幽霊は信じている
という人は意外とおおいもの
です。
これは、当人に自覚のない
ままに霊的知覚が働いて
真実を感じとっているから
なのです。
また、むかしから霊的知覚に
優れた人たちが、あの世に
ついてさまざまな表現で
伝えてくれているので、
『なんとなく、こんな
感じなのかなぁ』
と想像し、興味をもって
いる人もおられるでしょう。
そこで、今回は死後の世界
いわゆる【あの世】について
お話ししていきたいと思い
ます。
- 宇宙は近くて遠い存在である
- 人間界は悪魔が主導権をにぎっている
- 死んだあとにいく世界
- 人間の想念にはタイプがある
- 六道とはこんな世界
- 六道が存在する根拠
- 六道輪廻から抜けだすには
宇宙は近くて遠い存在である
成仏する
極楽往生する
神になる
神の国にはいる
天国にいく
宇宙に溶けこむ
これらは、どれもおなじで
永遠の安らぎと至福の世界に
はいることを意味します。
でも
『宇宙に溶けこむ』
というのが、
『成仏する』
とか、
『天国にいく』
などと並んで、永遠の安らぎ
と至福の世界にはいることを
意味すると聞いて、意外に
思われている方もいるかも
しれませんね。
あの世なんてものはなく、
人間は死んだらそれでおわり
だと考えている人からすると、
火葬場で焼かれて灰になって
しまえば骨以外の部分は空間
に溶けこんでしまうと考えて
いるでしょうから。
『宇宙に溶けこむのと天国に
いくというのがおなじなら、
火葬場で焼いてもらえば、
結局は天国にいけるんだ』
と、かん違いされたかも
しれませんね。
しかし、それは大きな間違い
です。
それをいうなら、そもそも
われわれ人間は宇宙のなかに
存在しているわけですから、
べつに死ななくても、肉体を
もって生きているいまでも
宇宙の一部のはずですよね。
あなたは、そんな自覚があり
ますか。
『自分だけは、この宇宙や
他人やすべてのものから独立
した特別な存在なんだ』
と、ばくぜんとではあっても
そんなふうに思っておられる
のではないでしょうか。
でも、この世界に存在して
いる以上、あなたも他人も
その他の動物も植物、鉱物
から空気のような気体に
いたるまで、すべてのものは
『宇宙に溶けこむ』以前に、
宇宙の一部であることは、
明白な事実ですよね。
つまり、ほとんどの人は
宇宙そのものでありながら、
そのような自覚も感覚も
ないというだけなのです。
そして、そのような人は
死んでも宇宙に溶けこむ
ことはできないのです。
いや、火葬場で焼いてしま
えば、肉体だけはと宇宙に
溶けこんだみたいな状態に
はなります。
しかし、人間とは肉体のほか
に幽体と魂という3層構造で
なりたっていて、肉体が滅び
ても魂を包んでいる幽体は
そのまま残ってしまうの
です。
ですから、肉体を脱ぎすてた
幽体がそのまま宇宙に溶け
こめる人というのは、生きて
いるときから心が宇宙と一体
化している人だけなのです。
そして、この
心が宇宙と一体化している
というのは、心が真の喜び
と幸せと安らぎで満たされ
ているということであり、
これは生きながらにして
成仏している、天国にいる、
神になっているというのと
おなじ意味になるのです。
人間界は悪魔が主導権をにぎっている
宇宙に溶けこんだり、成仏した
り、天国にいったりするには、
幽体のなかにベッタリと刷り
こまれている欲望や執着など、
手かせ足かせとなる想念を
すべてすてる必要があります。
生きているあいだにそれが
できていない人は、死んで
肉体を脱ぎすてたあとは、
それぞれの想念におうじた
場所にいくことになります。
幽体というのは、ほんらい
真空の宇宙空間のような
きよらかな霊的意識です。
しかし、人間として肉体を
もって生きているあいだは、
肉体(頭)からわきあがって
くる感情や欲望、執着などの
想念でどんどん汚染されて
いってしまいます。
これがいわゆる罪けがれと
いわれるものになるのです
が、神から人間をひきはな
そうとする悪魔のワナだと
いってもいいでしょう。
もちろん、この悪魔という
のは、マンガにでてくる
ようなツノとハネのはえた
人間の姿をした存在では
ありません。
神がエネルギーであったの
と同様に、悪魔もある種の
エネルギーになります。
ただし、神のエネルギーが
愛と調和と幸福そのもので
あるのに対して、悪魔は
争い、怒り、暴力、執着、
強欲、嫉妬心、虚栄心、
貪欲、悲嘆など、
他者や自分自身を傷つける
破壊的エネルギーになり
ます。
この破壊的エネルギーの
なかで、もともと自然界
に存在しているものが、
【悪魔(サタン)】
と呼ばれるものになり、
そんな想念をもったまま
死んだ人間の幽体(霊)
が、【悪霊】と呼ばれる
ものになります。
この破壊的エネルギーである
罪けがれが幽体にベッタリと
しみこんでいるかぎり、
それが重石となって死んで
肉体を脱ぎすてても、幽体に
つつまれた魂はまっすぐに
天国に昇ることはできない
のです。
死んだあとにいく世界
想念の汚れをもったまま
死んだ人、いや幽体は
どこへいくのでしょうか。
それは、その人の想念の
内容におうじたところに
いくことになります。
これを仏教では六道といい、
6つの世界があるとされて
います。
その6つとは、
地獄、餓鬼道、修羅道、
畜生道、人間道、天道
になります。
(道のかわりに界という
こともあります)
人間道というのは、
この世のことですが、
これは生きている人間
だけの世界ではなく、
この世に未練や執着を
もって死んだ人もここに
とどまることになります。
ですから
「天国で見まもっていて
ください」
と見送ったはずの人が、
おなじ家に住みつづけて
すぐそばで見まもっている
ということも珍しくない
のです。
これがいわゆる幽霊です。
霊能者がコンタクトしたり、
助けをかりたりするのも、
こういったたぐいの現世に
未練をのこしている霊と
いうことになります。
霊界のことをよく知らない
人は、目に見えない世界の
ことを教えてくれたり、
陰ながら自分を助けてくれ
るような霊は、高級神霊か
神そのものじゃないか、と
思ってしまうようですが、
そんなことはありません。
この世への未練や数着から
人間界にのこって人間に
干渉してくる存在なので、
その霊言はあまりあてに
なりませんし、そもそも
破壊的な想念をもっている
存在なので、そんな霊を
利用する人間の体調を
くるわせたり、生活を破綻
させたりすることのほうが
おおいといえます。
ですから、人間界にいる
霊の大半が低級霊や悪霊と
いえるでしょう。
ただそんな中でも、守護霊
というのは唯一の例外で、
善意から縁のある人間に
とりついて危険や災難から
まもってくれたり、さまざま
なメッセージを送ってくれ
たりします。
ただし、肝心の人間側が
その存在に意識を向ける
こともなく、メッセージを
受けとるだけの霊的知覚も
もっていなければ、その
恩恵をうけられることは
ほとんどありません。
そのため、せっかくの守護
霊が、ただの背後霊になって
しまっているケースはよく
みられます。
人間の想念にはタイプがある
それでは、どのような想念を
もった人がどのような世界に
いくのでしょうか。
想念は、たったひとつの想い
ではなく、脳からわきあがる
さまざまな思いや感情が
まざったものになります。
しかし、人間の思考や感情に
はクセがあるので、だいたい
似たような種類の思いや感情
がつみ重なっている人がほと
んどです。
自分は不幸だといつもなげき
悲しんでいる人
つねに不平不満や怒りの感情
が満ちあふれている人
お金やモノへの執着心が強烈な人
人を打ち負かしたいという競争心
や暴力的な思いでいっぱいの人
人を自分に従わせたいという
支配欲のつよい人
人より優位な立場にいたい、
人を見下したいという虚栄心や
自己顕示欲のかたまりのような人
自分よりも人のことを最優先で
考える人
このように、人それぞれ心の性質
のようなものがあるでしょう。
このようなふだんの思いのなかで
一番強いものがその人の性格と
なって、幽体の大部分をも占めて
しまうのです。
ですから死んで肉体からはなれた
あとも、その人の想念(性質)は
そのままのこり、それぞれの想念に
おうじた場所にいくことになるの
です。
六道とはこんな世界
幽体も想念も一種のエネル
ギーなので波長があります。
そして、おなじ波長をもった
もの同士は引き寄せあうので、
想念の種類によってあつまる
場所がきまってくるという
わけです。
それが六道の世界になるの
ですが、下位の世界から順に
みていきましょう。
地獄
つらい、苦しい、悲しい、
痛いといった、際限ない
苦痛が続く世界です。
餓鬼道
つねに飢えや欠乏感に
さいなまれ、どれだけ
欲を満たしても、なにを
手にいれても満足できず、
欲望がかぎりなくわき
だしてくる世界です。
修羅道
人を支配したり、負かしたり
することにしか喜びを感じられ
ない人たちがあつまって争いに
あけくれている世界です。
畜生道
動物のように自分の欲望を満た
すことしか頭にない人たちの
世界です。
人間道
これはわれわれのいるこの世界
ですが、この世のものにつよい
執着をもって死んだ人は、
幽体だけになってこの人間道に
とどまっていることもよくあり
ます。
いわゆる幽霊ですが、そんな
生者と死者が同居しているのが、
この人間道です。
天道
これは天界ともよばれますが、
天国とは異なります。
天国や神の国、極楽浄土と
いうのは、幽体のなかに
いっさいの欲望や執着が
なくなって魂(神)の光で
満たされている人だけが
いける場所になります。
それに対して、天道は人を
救いたいという利他的な欲
がのこっている人のあつまる
世界となります。
そこは、愛に満ちたやさしい
仲間にかこまれて、おだやかで
快適な空間がひろがっています
が、
『人を救わなければ』
という焦燥感や
『自分だけこんなに幸せになって
はもうしわけない』
という罪悪感にかられることも
あります。
だから天界といえども、
天国のような完全な安らぎと
幸せだけの世界ではないの
です。
世のため人のために尽くす
ことを菩薩行といいますが、
この天界にいる人たちは
そんな菩薩行のような人生を
おくった人がはいる場所に
なります。
ちなみに守護霊は、この天界
の住人である場合もあれば、
身内や子孫に執着心をもって
人間道にとどまっている幽体
である場合もあります。
六道が存在する根拠
六道の世界がどのようなもの
なのか、おわかりいただけた
ことと思いますが、カンの
するどい方はもうお気づき
でしょう。
これらは生きている人間の
世界でも、まったくおなじ
ような人がいて、おなじよう
な世界がありますね。
つまり、この六道世界という
のは、この世にも存在して
いる、ということなのです。
死ぬというのは肉体を脱ぎ
すてただけであって、服を
脱いで裸になるのと大差は
ないのです。
いま、人生がつらい、苦しい
となげき悲しんでいる人は、
服を脱いでも、肉体を脱いでも
その苦しみから逃れることは
できず、死んでもそのままの
世界が続くということなの
です。
あの世の存在を信じない人
たちは六道世界の話をしても
『なんでみてきたわけでも
ないのに、そんなことが
わかるんだ』
といいますが、じっさいは
六道世界はこの世に、しかも
目のまえにあって毎日みて
いるのです。
だから、みてきたかのように
語ることができるのです。
六道輪廻から抜けだすには
それでは、そんな六道世界から
抜けだすには、どうすればいい
のでしょうか。
もうなんどかお話ししています
ね。
生きている間に幽体のなかに
ある想念をすてて、幽体が魂
の光で満たされるようにする
ことです。
ということは、わたしたち
人間がこの世に生まれてくる
意義というものも、察しが
ついてこられたのではないで
しょうか。
人間には、さまざまな思いを
自由に発することができる
脳がそなわっています。
ほとんどの人は、この脳が
悪魔にジャックされていて、
自己中心的で、欲望にまみれ
たよこしまな思いばかりが
わいてきて、世のため、
人のためとか、足るを知って
自然に生きる、といった
魂の神性を発揮するような
思いがわいてくることは
ありません。
なので、何十回、何百回と
生まれかわり、死にかわり
をくりかえして六道を
グルグルとまわっていく
ことになるのです。
これを【六道輪廻】とか、
【輪廻転生】といい、大半
は天道より下の苦しみに
満ちた世界で過ごすことに
なります。
でも、安心してください。
真理を知った人は悪魔の
誘惑をはねつけ、自分の
心のうちにねむっている
魂に気づき、欲望や執着、
煩悩をすてさって、文字
どおりの生き仏になる
こともできるのです。
このように六道輪廻から
抜けだすことを『解脱』
といいますが、これは
六道のなかでも人間道に
生まれてきた者だけに
あたえられた特権なの
です。
他の六道にいってしまうと
たとえ天界であっても、
そこから天国に直行する
ことはできないのです。
だから、人間として生まれ
てくることができたのは、
それだけで最高にラッキー
なことなのです。
わたしが常々お勧めしている
イエス・キリストの福音は、
まさにそんな六道から抜け
だして天国にはいるための
道しるべとなるでしょう。
『一刻もはやく解脱したい』
という方は、新約聖書の
イエスの言葉を読んで、
その言葉どおりに実践され
るとよいでしょう。
このブログでも、また
くわしく解説していきます。