上は田原総一朗氏が石丸伸二氏を褒めていたとのスポニチでの記事。ヤフーニュースであがってた。
 石丸氏批判の記事にはヤフコメは石丸氏批判のものばかりなんだけど、この石丸氏擁護記事のヤフコメ欄は石丸氏擁護のものばかり。
 都知事選の投票者の1/4は石丸氏を支持してるし、浮動票では石丸氏が一位だった。都民で小池百合子氏に投票した人の多くは高齢者とかネットで調べていない人だったろうから、石丸氏擁護がネットで多いのは分かるのだが、記事によって殆どが擁護派だったり殆どが批判派だったりするのはなんなんだろうね。
 批判派ばかりの記事に擁護派らコメント書かないし書いてもウーンボタンで封じ込められるわだろうね。
 
 ただ記事としては褒める記事より貶す記事の方が大衆受けして売れるから、批判記事が多くなる。その批判記事には批判派コメントが多くなるので、袋叩きにあってるかのようにうつる。あまりネットを調べない人は、あーこいつ悪いやつなんだ、ってな印象をもってしまうかもね。
 
田原氏が石丸氏を褒めている理由はこうある。
 
田原氏は「都知事選を見てだよ」と返答。「単純に言うと、政治家の多くは正しいかどうかじゃなくて、得か損かしか考えていない。たとえば国会議員なんて、当選するかどうかが一番大事なんだよ。この国がどうなのかはどうでもいいんだよ」と指摘し、損得勘定を抜きにした理念を評価した。
 
 同意。
 
 石丸氏は
「自分に票を入れてください。お願いします」
とは言わないんだよね。選挙演説でそこが印象的だった。
 投票は立候補者から有権者への「お願い」ではない。
 選挙民は自分の考えを投票行動をする。当選した政治家は投票してくれた人のためではなく「全体最適」のために政治をする、全体最適の理念で公務員が働ける環境を作る。これがルソーの言う民主主義の神髄「一般意志」だ(過去記事1).
 
 石丸氏は国民の意識改革が必要だと説く。しかしどの方向へ変えるべきか具体的には述べない。私はこれは正解だと思ってる。ここが新しい。ここを言ったら傲慢になる。
 批判派のほとんどは誹謗中傷だが、まともな批判派は、この方向性が見えないところを指摘するか、またはその方向性を推測して、そこが自分の意見と合わないということで支持しない。
 れいわ党首の山本太郎氏は、石丸氏を支持しないと言い、その理由は「石丸氏は小さな政府を目指している。我々は大きな政府を目指している」と言う。とてもわかりやすい。意見としては尊重したい。ただ私は石丸氏が明確に小さな政府を目指しているとは思っていないことと、政府のサイズについて確固とした持論はない。どちらでなくてはならないかという決定的な理由が見つからない。
 

 

 

 

 

 

上はやはり最近のヤフーニュース。

ザンビアでの食肉市場での酷さを述べている。

 

そうだよね、日常的に動物を刃物で殺して食べてる人たちと、殺す場面に生涯一度も立ち会わずに毎日3食献立の中になんらかの肉を入れて食べてる人たちとでは、人生観も全然違うし、国民意識も全く変わると思う。

 

 さりとて、滅亡しないためには持続可能性として出生率2.07を少し超えるくらいが必要だ。長期的広域的にはそうなる。

現在の国民意識は短期的局所的なものにすぎず、いずれその持続可能な国民意識へと移行していくはずだ。

 出生率2.07超を維持する持続可能な国民意識とはどのようなものか。

 GDP世界2-3位を前提とするものでは無いはずだ。

 ザンビアは国としては強くなっていくだろう。

 今の新生児が成人する2050年頃までにはインド、インドネシア、ブラジル、メキシコが経済で日本を抜くと言われている。

 

 

 

 今の先進国のほとんどは衰退途上国となり、発展途上国はまさに発展の途上にあり、衰退途上国を抜いていくだろう。

日本は古代で先進国であったエジプトのようになるのかもしれない。

 そう言えば石丸氏は言っていた。この世には先進国、発展途上国、日本、アルゼンチンの四カ国があると。

 

“There are four kinds of countries in the world: developed countries, undeveloped countries, Japan and Argentina“
 「世界には、4つの国しかない。先進国と発展途上国、そして日本とアルゼンチンである。」
これは、1971年にノーベル経済学賞を受賞した、アメリカの経済学者サイモン・クズネッツの言葉である。
この言葉は、マクロ経済学の大家から見て、日本とアルゼンチンが例外的存在だったということを意味しているが、経済学の世界で広く知られるこの言葉は、今や我々日本人にとっては軽視できない警句になりつつある。

 

アルゼンチンが先進国だった事を知っている子は殆どいないのではないだろうか。私も「母を訪ねて三千里」(アニメ1976.1-12・高畑勲監督)で、イタリアの少年マルコが,アルゼンチンへ家政婦として出稼ぎに行っている母を訪ねるという設定に、

「なぜアルゼンチン?

と思っていた。原作の舞台は1882年だ.

そういう時代だった.1929年アルゼンチンは世界第五位の富裕国だった.

 

話はそれるけど,番組テーマ曲「草原のマルコ」.息子のいる母親だったらこれ聴いて.泣けるから.私はたまにこれを楽器弾きながら一人で歌うんだけど,涙が出て最後まで歌いきれないわ.息子を持つ前はこんなことなかったんだけどね.特にサビの

「さあ出発だ,いま陽が昇る,希望の光両手につかみ,ポンチョに夜明けの風はらませて,かあさんのいるあの空の下,かはるかな北をめざせ

ってところね.

 

 ていうか,丸顔のマルコ少年がりりしい顔でポンチョはおって肩にフサオマキザル乗せてロバに乗って行く(オープニングの最後の)シーンだけで泣けるわ.息子を持つ全母親が泣くんじゃないかしら.私は実際今涙流してこれ書いてますし.

 

 失礼.最後は脱線しました.

 

 

(過去記事1)

 

 

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