さとなお

こと

佐藤尚之氏(1961-)。


うまひゃひゃさぬきうどん

とか面白くてブログをよく読んでいた時期があった。


ジバランという自腹で食べて忖度なしでレストランランキングもしてた。


文章も面白かった。


で、その食通のさとなお氏が

2018年3月23日夜にいきなりアニサキスアレルギーになったとか。

 一年で一番花粉が飛んだ日の夜、疲れた体で友人とイタリアンレストランで遅い夕食を食べて帰宅して寝てる時に症状が出た。


それで魚介類は全部食べられなくなった。


それで2018年秋から軽い鬱になっていたさとなお氏は、かの乙武洋匡さんに励まされた。

広告業界で有名人のさとなお氏は五体不満足の乙武氏と知り合いだったそうだ。


さとなお氏:以前から知り合いだった乙武さんから励まされたんです。「しんどいことや苦しいことというのは人によって違います。生まれながら障害のある私より、(急に得意分野を失った)佐藤さんの方がもしかすると、辛いかもしれません。だから、もっとちゃんと悲しがって、ちゃんと苦しんでいいと思いますよ」って。そんなこともあって、今年の1月には「あ、鬱抜けたかも!」と自覚できるところまでは立ち直りました。


 ははは。面白い指摘。


 よくさ、障害をもった子の親がショックで泣いてたりして、障害を受け入れられないとか苦しんでるの聞くけど、私ら夫婦は、そこそこ明るく暮らしているつもり(過去記事1)。

 だって、末っ子は知的遅れのある自閉症だけど、本人は別に困ってないもの。明るく過ごしている。幼稚園に行けば辛いこと出てくるんだろうけど、幼稚園も保育園も行ってない。毎日寝たいだけ寝て食べたいものだけ食べてストレスなくすごしてる。

 そんな我が子を見ながら、私が泣くって、傲慢な気がする。それって障害児が可哀想なんじゃなくて障害児の親である自分が可哀想なんだよね。


 親が古い人生観価値観で勝手に悲しんでも意味はないと思うんだ。子に悪影響しか与えない。「え?私って可哀想な人なの?」

 たしか女芸人の青木さやかさんだったと思うけど、1人親の同級生のこと「可哀想ね」と母親が言っていて、「そうなんだ、片親の子って可哀想なんだ」と親の価値観に染められていたら、そのうち両親が離婚して自分が「可哀想な子」にさせられた、と書いていた。


 そうなのよ。


 時代の価値観に縛られてはいけない。


 私は人生の1番の幸福って子や孫の繁栄だと思っている。これは私の価値観。

 その基準で考えた時、末っ子は将来的に子や孫を作れるか?悲観的だとは思う。だけどね、世間の人は誰もその方向性で可能性を応援してくれないのよ。「就労」しか見てない。しかもその行き着く先が作業所だったりする。

 で、少ない可能性ながら、もし末っ子が子や孫を待てるとするなら、その目的のための手段として異性と結婚した方が良いよね。結婚生活を安定させる手段として安定した職につく手はあるよね。就労のためには競争社会で頑張って今の不自由を犠牲にして学校行くのも一つの手段だよね。

 学校へ行くのは手段であって、目的はもっと先にある。

 でさ、その目的のための勝ち目があるなら有効な手段を探して戦略的にやっていく必要はあるさ。

 でもさ、末っ子が子を持って育てていけて孫まで待てる可能性ってどれだけあるんだろう?いや、本人がそれを目指して頑張ってやっていくなら応援したい。でもさ、まだ5歳よ。親が自分の価値観を子に押し付けても親は責任取れない。どうせ先に死ぬから。

 家庭生活持たないのであれば、就労もそれほど拘る必要はないでしょう。

 二十代で子を2人以上もって60代まで働くなら、単に働くだけでなく、「キャリアを積む」ことで、新人より高い職業人的価値をあげていくのは有効だ。

 でも自分1人のためだけだったらキャリアを積む必要は無いよね。

 何か自分に特技があって、社会がそれを必要としていて、自分がそれに使命感とかやりがいを感じているならやれば良い、


 でもそれをやるかどうかは本人が決めること。


 親が立身出世思想を子に押し付けるのは親の傲慢だろう。


 私は子を持って幸福だし、これは私の価値観だ。でも子がまた違った価値観をもって違った人生を送っていっても、それは子の人生だ。子は子で私とは違うハードウェアをもって生活している。

 どうすればどうなる

 なんて確定的なことは人生ではないと思う。

 さきの乙武さんにしたって、生まれた時に両親はこの子が将来3人の子供の父になるなんてとても夢の夢の夢だったことだろう。

 乙武さんだったかヘレンケラーだったかの言葉でこうあった

障害は不便です。しかし、不幸ではありません」


 悲しんでもいない人を見て「可哀想だ」と嘆き、「社会で働くこと」を望んでもいない人に対し、「工場や作業所ででも勤務することが生き甲斐になる」と価値観を押し付ける風潮に私は疑問をもっている。


 私は理系人間なので、皆んなで労働して社会を良くしようとは思わない。社会を良くするという目的に対する有効な手段は何か?その手段として「人の労働に頼る」と「機械に頼る」のどちらが有効か、客観的に考える。理系人間なら、いつまでも人という動物に頼っていては進歩がない、機械化していこう、と考える。科学技術は人が楽するためにあるのだ。

 昔は馬や牛など動物が労働に使われていた。今はほとんど機械にとってかわられた。人間がやっている仕事も将来的には機械で置き換えていくべきだ。

 工業製品でダイヤモンドが必要な時がある。安くて簡単に手に入る人工ダイヤの方が天然ダイヤより優秀だ。いつまでも天然物に頼っていては進歩はない。目的と手段を間違えないことだ。


 「時間制限ペーパー試験でコンピュータも資料も無しで鉛筆だけで解答していく技能」をもつ人間という天然資源に頼っていては人間社会に進歩はない。


 勤労価値でカーストを作る意味は時代と共に益より害の方が増していくのではないだろうか。

 労働と離れて学問が好きな人は勝手に勉強するだろう。


(過去記事1)




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