(過去記事1)で英語力の話をした.

 

しかし,よく考えると,英語力とは単一の能力ではなく,様々な能力の複合的なものを指す.

 

例えば明治維新がおきて福沢諭吉が英語力をつかって海外の概念を日本へ導入し,

作家・啓蒙家・学者として活躍した.

 

しかし,bookをブークと発音していたという.

おそらく彼は英会話力はほとんど無かったろう.

 

英語ネイティブに口頭で話され,即座に恒等へ返答する.

こういった英会話力は無かっただろう.

 

幕府にも通詞は結構いたはずだ.だが活躍した様子はあまりない.

 

英語と日本語が両方できるという同時通訳者的な能力が高くても,

政治経済科学軍事など学問的な書物を読みこなすには別の能力が必要だ.

 

福沢諭吉は大学受験勉レベルの英文読解能力だけしかなかったろう.しかし難解な書物を読む能力と意欲があったのだ.

そしてそれを日本語で国内に説いた.

 

今,生成AIが進歩を遂げている.

生成AIが同時通訳をしてくれる.

テキストベースなら今でもかなり実用的だ.

 

そうしたら,必要な英語力もまた変ってくるだろう.

 

私が小学生時代習った漢字の手書きの書き順などはもう必要はない.

ワープロ文字を読めればよいし,書くのだって,いくつかの漢字変換候補のなかから選択できればよい.正確に書ける必要などもう無いのだ.


 筆算だって学校の外では使わない。


 人と面談する時だって会議だって、昔は直接会って話したものだが、今は混み合った話ほど、対面で会うのではなく、メールやチャットやズームを利用する。パソコンの前であればネット上の様々な情報を活用できるからだ。対面の時よりもずっと混みいった話を密度高く話し合うことができる。知らない言葉や事件を言及されてもネットですぐ調べて答えられるし。


 対面での口頭による会議は効率が悪い。


 そう言えば、弁護士や医師や専門家に相談する時もネットで下調べしてから行って濃密な話ができるしね。それで専門家としての力量も測れる。昔だったら無能さがバレなかった専門家も今なら簡単にバレる。


 生成AIがあらゆる言語の同時通訳してくれるなら、専門家を住んでいる地域から探す必要はない。世界中の中から信頼できる専門家を探せる。

 そしてその世界一の専門家は往々にして生成AIだ。


 そうなると、もう人間を教育する必要なんてない。

 少なくとも学校という画一的な方法論で単一の目標に向かう必要はない。


 時代は変わったのだ。


(過去記事1)