(過去記事1)の続き

 

岡山県笠原市

1949年8月18日

Hさんは生まれた.終戦して四年後。

 

このときのHさんの父母の気持ちになって今を思うとやるせない.

好きな将棋を息子らに教えたら覚えが良かった.

小学生のうちに大人の県代表を平手で倒す腕前だ.

先崎学棋士が言っていた.棋士にとって人生最良の時がその小学生時代だと.

1961年,Hさん小6,Hさんの兄Mさん中2で藤内金吾(1893.3.20-1968.2.11)八段(当時68才)に認められ奨励会に入った.

 

Mさんはプロ棋士として1971.10-2004.3日本将棋連盟に所属した.最後の10年はフリークラスなので年収百万円以下だったろう.それまでもC2クラスだったので年収2-300万円ほどだったのではないか(現在の物価に補正して).1972年25才,古語新鋭戦で決勝に進み兄弟対決で2位になったのが棋士人生で最高の場面だった.

 

Hさんは兄よりも棋士としては活躍した.タイトル戦に6回登場し,1期獲得していた.A級(棋士トップ11)に6期(6年間)在籍した.36歳以降は44才事件までA級も陥落し,タイトル戦にも出場していなかった.B1級だったので年収500-1000万円はあったと思うが.

 

 Hさんは1993年度,4月から11月までは19局対局し9勝10敗だった.

 

 長女は1978年頃生まれているから1977年頃結婚したのだろうか.Hさん28才頃,Y子さん24才頃か.

 勝負師のHさんと結婚するくらいだからY子さんも息子をある意味勝負する男に育てたかったのか.

 Hさんが棋士で,長男M君を当時急成長の浜学園に入れてみたら勉強に才覚を示した.

それでHさんは酒の席で,東大めざします,と言っちゃうし,Y子さんも舞い上がってしまったのかもしれない.

 

 分かるよ,その気持ち.

 

 実際,尻を叩き続けたら,灘中は失敗したとしても県内共学No1で国立の神戸大付属中に受かってしまった.

親としては成功体験と感じたろう.HさんもMさんもプロ棋士,M君も明晰な頭脳の遺伝子を引き継いでいるとY子さんは思ったろう.

 名門神戸大付属中に入ってから不登校になってしまってY子さんは動揺したろう.Hさんも勝負の厳しい人生を自ら選んで生き抜いてきた.M君には両親からの圧力が苦しかったろう.学力優秀な自分しか認めてもらえないのだから.

 

 Hさんには二人の弟子がいた.二人ともC2級クラスのままでフリークラスに落ちて約10年後にそれぞれ44才,55才で引退した.

 

 人生の本質って何だろうね.

 

 Hさんは将棋の事だけ考える人生だったか.しかし人生の本質は将棋の勝敗でもなければ中学校の成績でも無かった.金でも将棋ファンでもなかった。

 

 棋士の世界は勝か負けるかだけがすべてだ.勝てば周囲はちやほやするし,負ければ去っていく.だから勝ちにこだわるわけだが,対局者2名のうちどちらかは勝ってどちらかは負ける.ゼロサムゲームだ.Hさんにしたってタイトル戦登場は32-35才の数年間だけだった.

 

 M君がカバンにナイフを忍ばせていた時,Hさんは叱ったようだが,その時なにか気が付けばよかったか.

 

 1980年代まで不登校は,学校恐怖症とか登校拒否と呼ばれ,精神疾患であり,家庭環境が原因とされていた.

 1992年文部省(当時)は,「特別な子どもが不登校になるわけではなく、どの子でも不登校になりうる」という内容の通達を発表、不登校理解へのコペルニクス的転換と言われた.

 1993年11月ではまだその考えが西宮市のM家まで浸透していなかったのか.

 中学校とか受験塾とか受験を煽るばかりでM君の側に寄り添ってくれる人はいなかったのか。

 

 M君は2024年度44才になる。亡くなった時のHさんと同い年だ。

 M君のお母さんは71才ごろか。


 M君のお姉さんは今年度46才だろう。どこかで幸せな家庭をもっているのだろうか。


(過去記事1)