(過去記事1)から続き
H氏は1949年8月18日生まれ,岡山県笠原市出身.
船乗りであった父から将棋を教わった.
小学校6年生の時,兄(1947.5.20-)と一緒に奨励会に入会した.
奨励会とは正式名称・新進棋士奨励会であり,日本将棋連盟のプロ棋士の養成機関である.
入会するには最低でもアマチュア3-5段程度(都道府県のアマチュア大会上位)の実力が必要である.
師匠は藤内金吾(1893.3.20-1968.2.11)八段.坂田三吉(1870.7.1-1946.7.23)の孫弟子となった.
兄弟子に10歳年上の内藤国雄(1939.11.15-)九段(タイトル戦登場13回,獲得4期)がおり,H氏はたいへん慕っていた.
H氏は1968年4月1日(満18才)プロ棋士となった.
兄は1971年10月1日(満24才)にプロ棋士となった.
兄は1972年4月に兵庫県川西市で将棋道場を開設し,弟Hも師範となった.
この将棋道場は2024年現在でも活動している.
兄は25才から46才まで順位戦C2級で戦ったが,
1994年3月(つまりH氏の事件の4ヶ月後)C2級で3回目の降級点をとりフリークラス棋士となる.
(順位戦はA級>B1級>B2級>C1級>C2級>フリークラス.フリークラスは10年任期)
規定により10年後2004年3月末56才でプロ棋士を引退した.
弟であるH氏はタイトル戦に6回登場し一期獲得した.
当時7冠あったタイトルのうち棋聖は年2回あり,1983年前期.当時33歳.
2つ年上の中原誠(1947.9.2-)(タイトル獲得64期)からとった.
H氏の初めてのタイトル戦は1982年2月(32才),最後のタイトル戦は1984年10月(35才)だった.
一般棋戦の優勝は1972年度ー1985年度.
順位戦A級は1980年度から1985年度の計6期だった.1983年度ではA級で優勝し,谷川浩司(1962.4.6-)名人に7番勝負で敗れている.
A級陥落した1986年春まで,つまり36歳頃までがH氏の棋士としての全盛期だったか.
このころ妻Y子さんは約32才,長女は約7才(小学生),長男M君は5才(未就学児)であった.
その後,2度B2級まで落ちるが1991-1993年度はB1級であった.
事件の直前1993年11月12日金曜日は森下卓(1966.7.10-)と順位戦B1クラスで対局し,負けている.
だるま流と言われ,小学校6年生の時から奨励会に入り,32-35才で全盛期を迎え,44才までずっと勝負師としての人生だったろう.
対局の途中で顔をみるためにトイレにいくという.
鏡で自分の顔を見て自分を勇気づけるためだったと本人は言う.
事件後,兄弟子の内藤國雄へ電話が入った.
「Hさんのボトルが開けたばかりで残っているんです。供養に是非飲みに来て下さい」
Hさんはよそで飲んだ後最後に一人で良く立ち寄った店だという.
内藤が若いころ対局に負けたときにうたったという森進一の「ひとり酒場で」(1968.7)を謳っていたという.
飲んでうたってはよく泣いていたという.
続く
(過去記事1)