何度か取り上げている

障害児を普通学級へ全国連絡会

のお悩みQ&Aのサイト.

 

ここで共感できる話.

 

人の価値は、できることにあるのではありません。その人その人にあるのです。それはひとりひとり違います。その価値と価値が出会って人は豊かになるのだと思います。目の見えないことも、歩けないことも、聞こえないことも、寝たきりでも、そこに価値がある。違いを大切にするということは、そういうできないことの価値を大切にするということだと思うのです。(片桐)

「できないことはすばらしい!」について

この原稿を、運営委員で会報編集担当の千田さんに見ていただいたところ、次のようなコメントをいただきました。

「できる、できないではなく、その子その子の存在自体に価値があり、価値と価値の出会いが人を豊かにする、ということは私たちの基本的な考え方で、とてもいい文章だと思います。ただ、特別支援学校(特に高等部)に子どもを行かせようという親は、障害のある我が子が何か仕事が少しでもできるようになって、とにかくどこかに就職できるようにならせたいと「必死に」すがるように思っていると思います。その脈絡で考える人には、もう少し説得力がないように思います。働く、何かできるようになるということが人の価値を決めるように、思われているのですから。障害のある人の価値を認めないこの社会で、この思いがどれだけ、障害当事者や親御さんを苦しめてきたことでしょうか。そうではなくて働けないことはいいことだ、働けないことはすばらしいことだ、働かなくても生活保護を受けて生きていく権利があるのだ、そこまで言い切る、思い切ることへつながっていく議論だと思います。」

 

 そうなんですよ.同感.

 ChatGPT-4oが出来て,並みの同時通訳者・教師・アシスタントより優秀なロボットが24時間体制で無料で仕事をしてくれる.

 有能な人間なんて昔ほど必要ないんですよ.もうこれから.能力とは何か.いろんな定義があるでしょうが,一度明確に定義された能力に関しては,機械が人を超えます.

 

 昔は神とか迷信とか宗教にがんじがらめだった人が多かった.でも人なんて変わっていない.能力主義という信仰に毒されている親が子供をつぶしてしまうということは多々あると思う.子供時代に能力信仰を受け付けられるとなかなか抜けられない.

 

 だから,うちは普通級というか学校自体要らないかな,と思っている.上の子らは今は一応行かせて入るけれど.

 

 子どもによって成長スピードが異なる.人が好き,友達が欲しいという時期になればそれはその時に考えればよい.

うちの末っ子は自閉でまだその兆候が見られない.

 

 将来,うちの子はどっちのタイプになるだろうか.

(A)恋愛して所帯をもちたいとか,職業を持って社会貢献をしたいとか,自分の人生の意義を社会とのつながりの観点でいろいろ考え,自分の価値などについて悩んだりもがいたりするタイプ.人生や死について思い悩むタイプ.

(B)恋愛して所帯を持ちたいとか,職をもって社会貢献したいとか,ほとんど思わないまたはそこまで考えが至らない.社会の構造や自分の立ち位置がどうなっているかについて興味も無いし知ることも無い.人生・死について何も考えないタイプ.

 

 今はまだ未就学児なこともあり,(A)の段階には至っていない.上の子らは小学校低学年で死の恐怖に怯えた.

もし(A)のタイプであるとすれば,それがいつごろ来るのだろうか.

(過去記事1)に書いた知り合いのBさんは幼稚園の段階では(2)であった.しかし小学校中学年の今では表情などからもう(A)になってきていると思う.

成人したときにははっきり(A)だろう.自分が支援級にいた意味ももうはっきりわかる.

(過去記事2)でとりあげたブロガーすみれさんも,小1の入学式で自分だけみんなと離れて支援級の部屋にいれられた日の事を大学生になった今でも覚えているとのこと.

 

 今は(B)であっても成人になって(A)のタイプになったときに,自分が特別支援教育を受けていたことを自分と周囲はどう判断・評価するだろうか.そのときに一緒にいた友人たちとまた会いたいと思うだろうか?

 

 本田秀夫先生は小1から支援級に入ることを勧めている.でも著書をよく読むと,支援級が素晴らしいというより普通級で二次障害が起こることを警告している意味合いが強いことが分かる.だったら,不登校・ホームスクーリングが一番リスクが少ない方法なのではないだろうか.

 そして(B)から(A)へシフトしたときには子供自身が自分の未来について考え自己決定を下すだろう.

 そのときになるべくしがらみのないフリーハンドの状態にしてあげたい.二次障害の無い状態で.世間からも自分からも偏見無く.

 そしてその時に(過去記事3)でも書いたが,次の二つの道のうちのどちらかを選ぶだろう.

(1)自分と似たような人(言語障碍者)とだけ付き合う.

(2)いろんな人たちとテキストベースやAI補助などで付き合う.

 

 そこで彼らなりの人生経験でつかんでいくだろう.

 
我々親は人生経験が子より豊富なつもりでいるが,実はそうではないのだ.
親は子が生きる時代と違う時代違う特性で生きてきた.
親の経験は役に立たないのだ.
子供の方が自分の未来についてより適切に判断できるし責任も取れる.
 
 もしもずっと成人になっても(B)のままだったら?
むしろ成人でも(B)のタイプの人間を(A)タイプだと誤解して幼少期を学校で社会的イニシエーション参加させることは虐待ではないだろうか.
 そのときは,彼に出来る仕事があって彼がやりたければやればよいし,出来る仕事が無いのであれば無理にしなくても良いだろう.
すくなくとも成人後も(B)タイプの人間に対し,生活保護+アルファの賃金のために,小学生のころから12年間以上も本人が望まない楽しくも無い訓練を積ませる必要など無いと思う.
 
 
 
 

 

(過去記事1)

 

 

(過去記事2)

 

 

(過去記事3)