(過去記事1)の続き.

 

 1928年ダグラスがアムステルダムオリンピックの選手団団長をしていた頃,妻ルイーズが米国で複数男性と浮気をしていたとゴシップ記事がでた.華美な生活を求めたルイーズは質素なダグラスや母メアリーともうまくいかず,1929年離婚.

 

 1929年在フィリピン・米陸軍司令官として再度フィリピン勤務.暗黒の木曜日で世界恐慌.

 1930年陸軍最年少の50才で参謀総長になった.

 1932年ダグラスはボーナスアーミー(退役軍人居座り事件)で武力的に鎮圧し批判され,愛人とも別れて行き詰まりを感じ,時々自殺をほのめかした

 

 1935年参謀総長を退任してフィリピン軍軍事顧問.

  フィリピン・マニラ行の貨客船で(銀行家の娘で世界一周両行中の)ジーン(1898.12-2000.1)と知り合う.母メアリーも同乗していたがマニラ到着後1か月後に死去(メアリー約83才)

 1936年1月マニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟.600名のマスターが参加.

 1936年2月ダグラスはフィリピン陸軍元帥に任命.軍の予算は少なかった.

 1937年ダグラスはジーンと結婚.ダグラスは年齢規定で米国陸軍定年退官したが,フィリピンで直接雇用され軍事顧問として残る.

 

 1938年2月21日に長男アーサー出生(ダグラス58才,ジーン39才)

 

 1941年7月ダグラスは米国陸軍中将として現役復帰.米極東陸軍の司令官となる.

 

 1941年12月8日ー1942年5月7日フィリピンの戦い.日本軍が勝利しフィリピンを占領.3月ダグラスは10万余りの将兵を残したままオーストラリアへ脱出.

 

 1942年4月連合国軍南西太平洋方面最高司令官に任命された.

 1943年月ビスマルク海海戦でダグラス大将らのアメリカ・オーストラリア軍が日本に勝利.

 1944年10月20日ー1945年8月15日レイテ島の戦い.

 1945年1月6日ー8月15日ルソン島の戦い

 

 1945年8月30日14:05,ダグラスは専用機で厚木に到着.(ダグラス65才,妻ジーン46才,長男7才)

 1945年9月27日米大使館公邸でダグラスと昭和天皇の初会談.合計11回の会談の一回目.(ダグラス65才,天皇44才)

 1948年3月9日ダグラスは11月の米大統領選への出馬意欲を表明し,共和党候補となる.(ダグラス68才,妻ジーン49才,長男10才)

 1948年6月共和党大会で大統領候補落選.選出したデューイは11月民主党トルーマンに敗れた.

 1950年6月-1953年7月朝鮮戦争

 1951年4月ダグラスはトルーマン大統領に解任され米国へ帰国.(長男アーサー13才は初渡米)

 

晩年はレミントランド社(タイプライターとコンピュータメーカー)へ会長として天下り,日常業務での役割は無く,週3-4日,4時間程度出社して国際情勢について助言するほかは,野球やボクシングなどの観戦に関心があった.

 

 1961年 長男アーサー23才がコロンビア大学卒業(英語専攻).(ダグラス81才,妻ジーン62才)

(その後アーサーがどうなったかは記述に無い.英語Wkiによれば独身.日本語Wikiによればジャズピアニスト.ヒッピーになった説あり.)

 

 1964年4月5日老衰による肝臓・腎臓の機能不全でダグラス84才没.4月11日,数千人が参列する国葬.(長男アーサー26最,妻ジーン65才)

 

 2000年1月22日 妻ジーン死去.101才.(長男アーサーは61才)訃報で言及されたのは妹アンジェと長男アーサーのみ.ジーンに孫はいないアーサーは結婚経験無い

 

 2004年5月 長男アーサーが住むニューヨークのメイフラワーホテルが取り壊された.

 2024年5月 長男アーサー86才.

 

次回は感想.

次回は以下.

 

 

 

(過去記事1)