(過去記事1)で出てきたダグラス・マッカーサー(1880.1.26-1964.4.5)の話.

 

マッカーサー家はもともとはスコットランド貴族でスコットランド独立戦争(13-14世紀)で広大な領土を得るもその後領主同士の勢力争いで没落し,ダグラスの祖父(1815-1896)が少年時代に家族とアメリカへ移民としてきた.

父アーサー(1845年6月2日 - 1912年9月5日)は16才で南北戦争に従軍した軍人.

母メアリー(1852-1835)はボルチモアの裕福な綿花業者の娘.

ダグラスは1880年兵器庫の兵営で三男として誕生した.

その頃は西部開拓時代末期でインディアンと戦っていた.

 

1883年次男が死ぬと母メアリーはダグラスを溺愛した.(母31才頃)

 

上の写真,一番左がダグラス.

 

1898年4月米西戦争(対スペイン)で父アーサーは准将としてスペインの植民地フィリピンに出征した.その後の米比戦争(1899.2-1902.7)で在フィリピン米軍司令官として活躍した.家族はフィリピンへ行かなかったもののフィリピンとアーサー家の縁はこの頃からあった。

 

ダグラスはウェストサイド高校時代に受験勉強し,1899年6月にウェストポイント米陸軍士官学校にトップ入学した.

受験勉強時代にダグラスは上院議員の娘に片思いし,自作詩をもって娘の周囲をうろつくが相手にされなかった.

当時は軍服をまとった軍人が若い女性の羨望の的であり,若い将校が休暇で帰ってくるとダグラス片想いの娘をはじめとする若い女性は軍人の周りに集まっていた.

平服を来た民間人であるマッカーサーはそれを見ながらこそこそと隠れるしかなく,軍人になる志を強くした.

 

母メアリーはマッカーサーがウェストポイントに入学すると学校近くのホテルに移り住んで学園生活に目を光らせた.学業だけでなく女性を遠ざけた.

 

ダグラスが虐められた体験と死亡した同級生の虐めを隠ぺいした事は(過去記事1).

 

入学して4年後の1903年6月ダグラスはウエストポイントを94名中首席で卒業し,陸軍少尉となった.

 

1905年日露戦争観戦任務のため父アーサーは駐日米国大使館付き武官として勤務した.1905年10月ダグラスも副官として東京で勤務しに来た.このときダグラスは東郷平八郎・大山巌・乃木希典・黒木 為楨らと会った.

1912年9月に父アーサーが脳卒中で死去.(ダグラス32才,母メアリー約60才)

 

1917年4月米国が第一次政界大戦に参戦することが決まった.徴兵部隊を訓練しては間に合わないので全米26州の州兵でレインボー師団を結成し,ダグラスはその大佐・参謀長として1918年2月西部戦線(フランス)に参戦した.

 

 母メアリーは陸軍長官やヨーロッパ派遣軍総司令官,鉄道王ハリマンなどに息子を出世させるよう田上を何通も送っていた.

 

 ダグラスは39才で母校ウエストポイントの校長となった(1919-1922年).しごきの悪習を完全廃止し,士官候補生らにこう言ってきかせた.

日本との戦争は不可避である。その時になればアメリカは専門的な訓練を積んだ士官が必要となる。ウェストポイントが有能な士官の輩出という使命をどれだけ果たしたかが戦争の帰趨を決することになる」

 

 1922年ダグラス(約42才)は生涯2回の結婚の内の一回目の結婚をした.妻ブルックス(1890.9.24-1965.5.30)は,大富豪の娘で社交界の花と呼ばれていた.パーシング参謀総長の愛人であったが別れた後,パーシングの副官を含む数人の軍人と関係した.そのうちの一人がダグラスであったらしい.ブルックスは生涯4度結婚し4度離婚した.ダグラスは2番目の夫で,一番目の夫との間に3子(うち一人は夭折)得た.(ブルックスは一番目の夫の名前)母メアリーは結婚に反対し,結婚式に参列しなかった.(母メアリー約70才)

 

 1923年関東大震災.ダグラスはフィリピンから日本への救援物資輸送の指揮を執った.その功績で1925年陸軍史上最年少の44才で少将となった.

 1923年12月 兄アーサー(海軍大佐)が病死(5人の子供を持つ.内一人は夭折).(母メアリー71才)

 

続く.

 

 

 

(過去記事1)