(過去記事1)の続き
私の考えはこうだ.
特殊算は要らない.
ただし,これには注釈がつく.どうしても(私が勧めない)私立中学受験するという子で,とにかく合格することが目的で,でも方程式は理解できないような子は,特殊算を習えばその手の問題を得点源にでき,合格可能性が高まるだろう.
しかし,そういった状況以外では意味は無い.そもそも私立中学受験合格に意味も見いだせない.
私は日本の文科省や世界の大勢が考えるように,
特殊算は方程式で塗り替えられる
だから,特殊算は無駄.
そう考えている.
もっと本音を言えば,中学校で習う方程式の解法も要らない.学校で解法の説明くらいはしても良いが、テストで競わせるなどは無意味か有害だ。
(過去記事2)でほとんどの問題をChatGPTが解いたことを思い出そう.
1問だけ解けなかったが,連立方程式を入力したら正答した.
算数・数学は人間が解く必要はない.AIにとかせればよい.
私はそう考える.
数学者は一般人ではなくAIに数学的技法を教える.
一般人はAIに数学の問題を解いてもらう.
これで良い.
ただAIはまだ日本語・英語など自然言語が完ぺきではない.
一般人はAIとコミュニケーションがとれるよう努力する必要はある.
もちろんAI側でも努力して双方が歩み寄ることで時代が進歩する.
算数・数学の問題をそのままAIに入力して答えてもらってもよいが,一部の問題は,AIが理解できないので,AIが分かる形で翻訳しなければならない.
問題文を読んで,方程式が立てられるところまでいけば,
AIは理解して正解を1秒未満で出力してくれる.
(人間の問題)<ーA->(数学の問題)<ーB->(数学の解)
この対応から,(数学の解)に人間の問題の意味付けができる.
Bの対応はAIがやってくれる.しかしAの対応は人とAIの共同作業であり,
全てAIにあずけることは出来ない.
なぜならそこには曖昧さがあるからだ.
動物園・甲虫・蛇口・排水口,これらの用語から必要な情報をとり不必要な情報を捨てる必要がある.これはかなりの部分,人間の仕事だ.
・人間の問題を読んで方程式を立てるのはA対応,
・立てられた方程式を解くのはB対応,
だ.
特殊算は,ある意味AとBが混合している.
AとBははっきり分けた方が良い.
算数ではAとBがはっきり分かれない.
大学の数学ではAとBは完全に切り離されている.Aの部分は扱わない.
物理学でもAとBははっきりとは分離していない.
例えば相対性理論は定理群というよりは定義群に近い趣がある.重力方程式の候補を絞るためにはBの操作を必要とするが,かなりの部分に常時,Aの判断が入る.
昔は数学でもA,Bは分離していなかった.1930年代ブルバキの公理化の影響を受けて,記述が完全にBになり,Aを切り去ることになった.高校数学でもまだAとBは完全に分離して記述されてはいない.
特殊算と方程式の一番大きな違いは,
方程式は既に曖昧性の無い形式的記述になっている
点だ.機械で一意に処理可能ということである.
特殊算はA,Bが混在した形であるという意味で古いと言える.
短距離走を訓練したものがF1レーサーで優勝できるわけではない.全く違う能力なのだ.
特殊算を強調する人の多くは塾産業界の人だ.難関中学や難関大学に入れたことが人生最大のピークになってしまい,学校出た後では塾業界でいまだにその手の問題を子供相手に解いている.外の世界で活躍できていない.
特殊算はソロバンと同じくらいの意味で役に立たない趣味のもの
というのが私の答えだ.
時間がある趣味人の一部はやってみてもよい.五目並べやマイナースポーツと同じもので,それが好きな人同士で集まってやるのはよい.
ただ,それで学校歴を勝ち抜き,勝ち取った学校歴が生かせていないという現状をみると,やはり特殊算は趣味のものであって,政府としては私立中学受験や塾を規制しても良いという気がする.
公教育(特に公立小中学校)ではインクルーシブの発想のもと,
生徒らを学力や障害や性別や他の特性で分けない
という方針で学校運営がなされている.その是非を問う価値はあるとして,今は是という思想で進んでいる.これを非とする思想を許して公教育で一部実現する考えはあれども,金を積んだものにだけ私立教育で許されるという風潮はいかがなものか.
特殊算だけでなく和算には幾何学の定理群とかで,現代的手法を使って統一的に解けるものの,その場その場の特別な場合の特性に着目して解くad hocな限定目的の手法が沢山ある.そんな場当たり的な発見的な方法に頼らない統一的な方法を開発してきたのが学問の発展なのだ.そんな和算のパズル解法に取り組むのは老後の趣味にしておくにはよいにしても,これからの若い人には勧めない.
そんな時間があるのであれば計算機プログラミングの勉強するとか自動証明の勉強するとか,微分積分線形代数の勉強をするとか,そちらの方がずっと有意義である.
私が
特殊算は不要
と言ったのはこういう意味である.
(過去記事1)
(過去記事2)