(過去記事1)の補足。

先月の東大理科入試の数学の大問6(2)の話。

 代ゼミ第6問解答の(2)の①式から②式を引き算すれば、河合塾のように一発で終わるのだが、それが思いつかないと、代ゼミのように議論が長引くわけである。でもこんな思いつきに頼らなくても解けることこそ真の数学の実力とも言える。
 
 まあこれについては人によっていろんな考え方はあるだろう。
 パッと見て①から②を引くテクニックを思いつくかどうかは運とも言えるし、受験テクニックとも言えるし、アートとも言える。
 現実の職業の現場では必要とされる事はまずない。数学者であったととしても、トリックを思いつかなくてもなんとかしちゃう力の方が重要だったりはする。

 でもある種のアートと捉えても良いかもしれない。

 私は、こういう受験数学的テクニックはアートとして評価しても良いのではないだろうか、と考えた時期があった。
 背景には落語好きの体験があった。
 古典落語は古い定番のネタを噺家がそれぞれ自分なりの脚色で演じる。同じネタの大筋パターンはだいたい一つで複数あるパターンでも数種にとどまる。ちょっとした色付けで、あの噺をやらせたらあの落語家は素晴らしい、とか評価される。

 だから、受験数学の講師だって毎年定番のネタを教えているんだろうが、噺家のように講義の芸術性を評価されても良いのではないか。数学の答案だって、時間内に正解が出れば満点もらえるが、複数ある解答にも芸術性オリジナリティを認めて評価してやって良いのではないか、そう思った。
 後に知ったが、数学者で計算機科学者のクヌースが似たような事を言っていたと思う。彼は解答というより、演習問題のオリジナリティや作品性を認めても良い、と言ったと思う。

 そんな話を昔ある数学者に話した。宴会の席で。受験数学の講義や問題解答のアートとしての価値を認めても良いのではないか、と。
 鼻でフンと笑われた。
 今でも印象に残っている。

 うーん。彼と私とではまだ見ている世界の次元が違うんだな、と、そう思った。今なら気持ちも分かる。
 そんな小手先のテクニックを一つや二つ先に見つけたかどうかなんて幼稚なこと、という捉え方もできる。確かに。
 もちろんプレゼンテーションに良し悪しはあるが、良さを極める事に価値を置かないのだろう。マナーを身につける事は大切だが、プロのマナー講師の資格をとることに興味はないといったところか。

 今はむしろ彼の意見に賛成だ。受験数学なんてその程度のものか。

 一方で、落語や楽器演奏なんかは、定番のはなしゃ曲にちょっとしたアレンジで、講演したり演奏したり、プレーヤーとしての創造性も認められてる。

 数学とか科学は発見者開拓者は認められるが、演奏家は地位が低い。教科書ライターもあまり評価はされないと思う。

 受験科目授業は所詮は受験生に問題を解かせるのが目的で、受講者を芸術性で感動させることがゴールではない。

 あとね、式①から式②を引くテクニックなんてのは、AIでもやれそうなんだよね。所詮はある有限パターンの試みから試すだけだから。大学受験問題は既にAIが受験生の平均を超えたらしい。トップ受験生を超える日は近いと思う。(過去記事2,3)

 まあそれを言ったら楽器演奏だってロボットの方が器用にできるじゃないか、というと、それはそう。将棋も囲碁も。
 写真の発明は絵師には強い影響を与えたろう。絵が実用からアートになった。

 今思い出したけど、確かそういう数学の演奏性アートみたいな事を表明している人がいましたね。彼の気持ちも分かるんですよ。AIに超えられてもまだ藤井聡太の将棋ファンがいるし。昔は羽生善治は良い棋譜を残す事を目標とか言ってましたが今は言いませんよね。良い棋譜だったらAI同士で出力するし。人同士だとポカの応酬だったりするし、その人間ドラマを見たいという層もいる。

 結論はありません。雑談でした。


(過去記事1)